希望のかなた

「希望は海のかなたに」カウリスマキ監督の新たなる地平線

kibou_sub2家から出た男の物語は、いつもながらのカウリスマキ・ワールド全開といった趣がある。一方、シリア難民のカーリドの物語は、現実にヨーロッパで起こっている出来事が、彼を通して積み上げられていく。ギリシャからトルコに入り、マケドニア、ハンガリーへと辿った彼の道のりが、入国管理局の面接を通して詳細に語られる。ハンガリーで突然国境にフェンスが作られ、妹と別れ別れになってしまったと話していることから、その時期も2015年7月頃と、特定することができる。アフガニスタン人に親切にされたエピソードなども具体的で、彼の境遇が実際のルポルタージュから作りあげられていったことが想像できる。もし、カーリドの物語だけで、この作品が進んでいたならば、かつ、施設で男同士が残り少ないタバコを分け合い、友情が芽生えるというカウリスマキ作品お決まりのシーンが無かったなら、ケン・ローチの作品かと見まがうほど、描写がリアルである。また、戦乱に巻き込まれたことが明らかである彼のような人でさえも、難民に認定されることがない理由をテレビのニュースと入国管理局の言い分を並べることによって示し、あからさまな政府批判までしてみせる。こんなことが彼の作品にかつてあったであろうか。移民問を扱った作品でも、ヨーロッパにおける移民問題が容易ならざることを、逆にファンタジーで締めくくることによって表現した『ル・アーヴルの靴みがき』とは、ずいぶん趣が違う。

kibou_sub1それでいて、カウリスマキはあっさりと、この方法(リアリズム)を否定する。「そんな企みはたいてい失敗に終わるので、その後に残るものがユーモアに彩られた、正直で少しばかりメランコリックな物語であることを願います」(「アキ・カウリスマキ監督からのメッセージ」映画パンフレットより)実際、ヴィクストロムが経営するレストランにカーリドが流れてきたところから、そのリアルな物語は、いつものカリウスマキ流のユーモアの世界に、温かく包み込まれていく。この2つの異なる世界を、違和感なく融合させる役割を果たしているのは、弦楽器による音楽である。カーリドが弾くシリアの伝統弦楽器サズの音色と、ギターの音色。劇中たくさんのアーチストたちがギターを演奏し、カーリドがそれに共感するというシーンが、散りばめられている。音楽が人々を結びつける。これまでのカウリスマキ作品でも、散々使われてきた哲学のようなものが、ここでは人だけではなく、異なる物語のスタイルを調和させる役割も果たしているのである。

kibou_sub6元々彼独特の世界が、リアリズムの裏打ちによって成り立っていることは、『パラダイスの夕暮れ』の洋品店のシーンや、『マッチ工場の少女』のヒロインの家庭の描写などを挙げるまでもない。カウリスマキ・ワールドとでも呼ぶしかない、彼独特の世界にそれらが潜むことで、観客は常にドキリとさせられてきたのである。今回は、それを前面に出しながらも、観終わってみれば、いつものカウリスマキの世界という印象が残る。そういう意味でこの作品のスタイルは、傾向映画、観客を感化しようとする映画を否定しつつも、ヨーロッパの深刻な状況に対しては、その方法もある程度は有効であることを知っているカウリスマキ監督がたどり着いた、ひとつの結論だったのかもしれない。引退を宣言したカウリスマキだが、これはむしろ彼にとって新たなる地平線を獲得した作品であり、次のスタート地点に立った作品とも言えるのである。

『希望のかなた』紳士淑女録
アキ・カウリスマキ映画「紳士・淑女録」
© SPUTNIK OY, 2017 
※12月2日(土) 渋谷・ユーロスペース、新宿ピカデリー他にて 全国順次公開

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