希望のかなた
アキ・カウリスマキ監督が、政治的メッセージを強く訴えだしたのは、いつの頃からだったろう。2002年のニューヨーク映画祭に招待されていたアッバス・キアロスタミ監督のビザが発給されず、入国できなかったことに対して、抗議したあたりからではなかったか。2006年『街のあかり』でアムネスティ・インターナショナル映画賞を受賞した時にも、自由経済について、政治的な発言をしていたことが思い起こされる。しかし、彼の作品は、決して政治的なものではなかった。敗者三部作、労働者三部作という名前で呼ばれる作品群を観ればわかるように、常に弱者の視点で物語を紡ぎだしていたことは確かである。ただ、そんな中でも、彼の作風は深刻ぶることはなく、どこかユーモアをたたえていた。登場人物たちの愚かな行動に笑ったり、一緒に悲しんだり。彼らの世界は常に貧しかったが、ご近所の人情、友情や、家族の情愛にはいつもほろりとさせられ、温かい気持ちになったものである。
カウリスマキ・ワールドの原点たる『パラダイスの夕暮れ』では、洋服店の店主が、店に入ってきたニカンデル(マッティ・ペロンパー)がゴミ収集人の制服を着ているのを見て、あからさまに差別な発言をするなど、ドキリとする場面が散りばめられている。カウリスマキ監督は、ストレートに物を言うのではなく、常にこうした表現で問題を提示している。それは、会社を興そうと融資の相談に行った主人公に対して、銀行員が「あなたコメディアンですか」と、笑い者にしてしまう『街のあかり』に到るまで一貫している。政治的主張というよりは、経済的、社会的弱者ということだけで差別されること、彼はそのことに常に敏感であり、彼らの孤独を描くことにこだわり続けたのである。
『希望のかなた』は、これまでのカウリスマキ作品とは異なる点がいくつかある。彼の作品では、希望は常に外の世界にあった。例えば『パラダイスの夕暮れ』『真夜中の虹』では船に乗って、外国に行くことが一種の救いになっている。ところが『希望のかなた』は逆に、シリアの難民がフィンランドを希望の地とみなし、船で入ってくるのである。船の名前はエイラ号。かつて『カラマリユニオン』で、男たちが希望の地を目指して旅立った、その土地と同じ名前だ。この作品では、このシリアからの難民カーリドと、アル中の妻を家に置いて心機一転レストランの開業を目指す男ヴィクストロム2人が主人公である。船から降りた男と家から出た男は、その直後にすれ違うものの、すぐに物語は交差することなく、別々に進んでいく。カウリスマキ監督が、こういうスタイルを取ること自体が珍しい。