「マーラー 君に捧げるアダージョ」偉大な作曲家の妻であることの不幸、ミューズであることの幸福

昨年から今年は、ウィーンで活躍した作曲家グスタフ・マーラー(1860~1911)の生誕150年および没後100年のアニバーサリー・イヤーである。クラシックのコンサートでもマーラーの作品が取り上げられている機会が多いように思う。クラシックにはあまり興味がない人でも、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(71)の音楽、と聞けばピンとくる人もいらっしゃるだろう。『ベニスに死す』では、マーラーの交響曲第5番4楽章〈アダージェット〉が使われている。映画の耽美的な世界観と音楽が絶妙にマッチし、マーラーの代表作と言えば、この〈アダージェット〉を最初に連想する人が多いのも頷ける。

このハーブと弦楽器だけで演奏される〈アダージェット〉は、マーラーが19歳年下の妻で、当時のウィーン社交界の華、アルマ(1879~1964)へのラブレターを音楽で表現したものと言われており、うっとりするほど静謐で甘美な調べだ。この曲を聴く限り、マーラーとアルマとの関係は至って平穏、愛に満ち足りたもののように感じる。

しかし、本作『マーラー 君に捧げるアダージョ』を見て、愕然とした。マーラー夫妻の関係は、愛憎と苦悩の連続ではないか。美しくて作曲の才能を発揮するアルマにマーラーが魅了され、年の差を顧みず愛し合うまでは良かったが、マーラーは婚約後に「作曲は一切やめて、妻として尽くすように」と彼女に言い渡す。作曲家を夢見ていたアルマは絶望するが、彼への愛は深く、条件を受け入れて結婚。娘2人にも恵まれ、傍目には順風満帆な結婚生活に見えた。だが長女の死をきっかけに、それまで鬱積していたアルマの心は大爆発。彼女より5歳年下でバウハウス創設者のヴァルター・グロピウスとの不倫に走る。そして妻の不倫に衝撃を受け、かの有名な精神分析医ジークムント・フロイトのカウンセラーを受けるほど、懊悩するマーラー。夫婦間の罵り合いは絶えず、修羅場が繰り返されている。いったい〈アダージェット〉の調べのような甘い関係はいずこへ消えてしまったのか!?と思わずにはいられない。

マーラーとアルマの関係の変遷は、フロイトの診察で明らかにされていく。恋愛期間中は熱烈に求愛し、恋人の才能や考え方を賛美していた男性が、結婚した途端、180度態度を豹変したら、当事者の女性はもとより第三者(本作を観ている観客を含む)だって驚くのは、当然だろう。マーラーのアルマに対する抑圧っぷりは、封建的な考え方が主流の1世紀前の物語ということを差し引いても、筆者にはどうしても納得しかねる。こんな傲慢な夫に人生を蝕まれたアルマに、同性として同情を禁じ得なかった。
その一方で、マーラーが世に送り出した数々の名曲は、アルマの存在があったからこそ誕生したのは間違いない。マーラーが彼女から得たインスピレーションは絶大で、フロイトにも「アルマは僕の全てだ」と打ち明けている。そして、彼の作品を今もコンサートやCDなどで享受し、愛好している現代の我々がいる・・・。そう考えると、特にクラシックファンの身からすれば、マーラーを腹立たしく思い、アルマに同情を寄せつつも、非常に歯がゆい思いが胸中に渦巻いていた。

だが、映画の終盤、フロイトが診断結果として、マーラーの心の奥底の真実を探り当てた時、それに呼応するように、マーラーが交響曲第10番第1楽章〈アダージョ〉の作曲に渾身の思いを注ぐシーンには、それまでの歯がゆさを払拭するほど、心揺さぶられる思いがした。愛や憎しみや苦しみを音楽に昇華させることは、ごく限られた芸術家だけがなし得る特権なのだろう。そして、マーラーは「私の音楽をあなた自身の音楽として考えることはできませんか?」と結婚前にアルマを口説いたが、結果として、彼はアルマにせめてものつぐないを残したことに、思わず安堵のため息をついてしまった。

マーラーとアルマの結婚生活は失敗だった。アルマは女性としての、芸術家としての未来や幸福を、結婚と引き換えに犠牲にしてしまった。だが、マーラーの作品は、地球が存在する限り、時代から時代へと受け継がれていくことだろう。それは同時に、アルマもまた生き続けているということに他ならないからだ。アルマに永遠の命を吹き込んだのは、マーラーなのだ。アルマはミューズとして、これ以上望めないくらいの幸せや祝福を与えられたのではないか。

もちろん、幸福の尺度は人によって違いはある。穏やかな結婚生活を望む人は多いと思うし、それは決して間違いではない。だがアルマは、良妻賢母の生涯では満足できなかった。マーラーとアルマが結婚し、マーラーの作品が後世の人間に愛されているというのは、すべて結果論だし、実際のアルマがどう感じていたかは推し量るしかない。しかし、パーシー・アドロン監督とフェリックス・アドロン監督は、至高の芸術家ならではの愛と幸福を、時に甘美に、時に残酷に描き出した。それによって、余人の理解が及ばないような、マーラーとアルマの深遠な愛の終着点を目撃できるという、この上なく贅沢な作品に仕上がっている。

そして、これから先、マーラーの楽曲を聞くことがあれば、その音楽のなかにアルマの面影を探してみたいと思うのである。もちろん、アルマへの感謝の気持ちを込めて。

オススメ度:★★★★☆
Text by 富田 優子

製作年:2010年
製作国:ドイツ、オーストリア
原題:MAHLER AUF DER COUCH
監督:パーシー・アドロン(『バグダッド・カフェ』)、フェリックス・アドロン
出演:ヨハネス・ジルバーシュナイダー、バーバラ・ロマーナー、カール・マルコヴィクス(『ヒトラーの贋札』)、フリードリヒ・ミュッケ
演奏:エサ=ペッカ・サロネン指揮、スウェーデン放送交響楽団
配給:セテラ・インターナショナル
公式サイト:http://www.cetera.co.jp/mahler/
(c )2010, Pelemele Film, Cult Film, ARD, BR, ORF, Bioskop Film GmbH

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4月30日(土)より渋谷ユーロスペース他、順次全国公開

トラックバック 2件

  1. soramove

    映画「マーラー 君に捧げるアダージョ」眠かった…

    「マーラー 君に捧げるアダージョ」★★ ヨハネス・ジルバーシュナイダー、 バルバラ・ロマーナー、カール・マルコヴィクス出演 フェリックス・O・アドロン、パーシー・アドロン 監督、 102分 、2011年4月30日より全国順次公開, 2010,ドイツ、オーストリア,セテラ・インターナショナル (原作:原題:MAHLER AUF DER COUCH)                     →  ★映画のブログ★                      どんなブログが人気なのか知りたい← 「音楽の事は…

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