「愛しきソナ」ヤン・ヨンヒ監督インタビュー~感じてほしい、北朝鮮の大切な家族

笑い声溢れる和やかな家族団らんの風景が映し出される。
「あれ、普通だ……」
ドキュメンタリー映画『愛しきソナ』からこんな印象を受けたあなたは、正しくもあり、間違ってもいる。主人公ソナは、北朝鮮・ピョンヤンに暮らす少女。アイスクリームに喜び、ボーリングを楽しみ、学校に通う。一見、日本のどこにでもいる子どもと、その家族の日常に変わりない。しかし、この作品から、私たちは明らかに違う“何か”を感じとることになる。

監督のヤン・ヨンヒさんは、ソナの父親を含む3人の兄とともに、在日コリアンの人々が多く暮らす大阪市生野区で生まれた。1970年代、「帰国」と呼ばれた在日コリアンの北朝鮮への集団移住事業により、3人の兄弟は見たこともない“祖国”、“地上の楽園”と言われた北朝鮮に渡る。6歳だった監督は、両親とともに大阪にとどまった。

前作『ディア・ピョンヤン』で朝鮮総連の元幹部である父への複雑な思いを描いたヤン監督は、最新作『愛しきソナ』で、北朝鮮にわたった兄たちと、ソナをはじめとする彼らの子ども達の日常を、優しい眼差しで見つめている。両作品とも、観ている側がふと笑顔になるようなユーモアと愛情に満ち、北朝鮮という特殊な体制の国で暮らす一家の姿ながら、“楽しい隣の大家族”のような親近感を抱かせてくれる。作品同様、ご本人からも女性ならではの柔らかく、且つ強靭な魅力を感じさせるヤン監督に、これまでの足跡と作品について、お話をうかがった。

Q監督ご自身、どんなお子さんだったのでしょう。

A:小学生のころから映画が好きで、中学生になってから芝居も見始めました。朝鮮学校にずっと通っていたのですが、高校生のころには、映画『パッチギ!』みたいなチェマチョゴリ姿で学校帰りは劇場直行の生活を送っていました。映画館か、芝居か。時にはコンサートにも。兄たちが6歳の時にいなくなり、かぎっ子になったので、一人上手になってしまったのですね。

Q:教員をされた経験がありますし、演劇の道も志されている。それぞれの職業のきっかけを教えてください。

A:ずっと演劇が好きで、一生芝居に関係していきたいと思っていました。でも、演劇の道ってお金にならないし、覚悟が要るじゃないですか。一度まわりの大人が言うように就職をして、それでも演劇をやりたかったら切り替えよう、その間自分の気持ちを試そうと思い、学校の先生になりました。魔がさして結婚までしたのですが(笑)、「ダメだ、こりゃ」と思って、先生も結婚も両方スパッとやめてしまった。ここまで悩んでいるのなら、もうやりたいことだけをしようと思いました。アルバイトをしながら仲間と劇団を作り、20代の終わりまで大阪で劇団活動をしていました。でも30歳を目前にした時に、演劇はただ好きなだけで、才能がまったくないということに気付いてしまった。

Q:それからどのようにドキュメンタリー作家へと転身されたのでしょう。

A:以前はドキュメンタリーを全然見なかったのです。どちらかというと、ニュースも見たくないくらいだった。というのも、現実がしんどかったから。家族や、(監督自身の)バックグラウンドがすごく重かったので、フィクションに逃げていたところがあった。けれど、やっぱり表現をする仕事をしたいという気持ちはありました。
それで芝居をやめたばかりのころ、舞台を見に来てくださっていた放送局の方が、「ラジオをやってみない?」と誘ってくださって、それから道が変わりましたね。ラジオの仕事がすごく楽しかった。いつの間にか、関西で3本ほどレギュラー番組を持つようになったのですが、すべてアジアの情報提供の番組でした。今のように「韓流」がブームじゃないころだったのですが、韓国のポップスも聴くようになり、歌手のインタビューに出掛けることも。そうするうちに、20代はフィクションの方に向いていた興味が180度変わっていきました。ドキュメンタリーをたくさん見るようになり、ドキュメンタリー映画際にも頻繁に行くようになりました。家族を描いた作品に最も惹かれ、私のバックグラウンドについても、「人と違うことは面白いかもしれない」と思うようになりましたね。うちの家族がちょっとユニークなので、「これ、ネタじゃない?」みたいな(笑)。


Q:うちの家族は負けてないよ、と?

A:ネタとしてはいい線いってるな、と思って(笑)。ドキュメンタリー映画際で、監督のQ&Aを見かけました。そうしたら、作品で2時間も自分の言いたい事を伝えたあとで、まだしゃべっている!私がやりたいのはこれだ!と思った。それからは、勉強のためにドキュメンタリー映画際に意識的に足を運びました。開催期間は、パンをかじりながら朝から晩まで作品を見て、ドキュメンタリー監督たちとお酒を飲んだりして……一つの学校だったな、と思いますね。
30代の頃は、ドキュメンタリーを積極的に観に行き、そしてビデオ・カメラで自分の家族も撮り始めていました。また、テレビ番組等で北朝鮮について話すことを求められる機会も増えていった。そのたびに勉強不足を痛感し、1997年にニューヨークへ留学しました。ニューヨークにいる間も家族は撮り続けた。家族の作品を作ることが、宿題みたいになってしまって……。それができたら、「もう映像はやりきった」といって終わるのか、そこからまた道が始まるのか、どちらかだなと思っていました。

<ヤン監督が作品に込めた思いは?その②へ続く>

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