枯れ葉

帰ってきたアキ・カウリスマキの新作はメロドラマの傑作だった。

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 タイトルの黒い画面にピーッ、ピーッ、ピーッ、という電子音。あっ、これはスーパーのレジの音に違いないと思えば、やはりそうであった。映画のヒロイン、アンサの職場はスーパーなのである。賞味期限切れの食材を密かに持ち帰り、電子レンジで温めるだけの、一人暮らしの侘しい食卓。つづいて工場での作業の様子が映る。金属の洗浄をするのは、この映画のもう一人の主役ホラッパである。勤務中にも関わらず、隠しておいたお酒を飲む。宿舎に帰れば共同部屋のベッド寝転んで漫画を読むだけの日々。スーパーと工場、これだけで、もうアキ・カウリスマキ・ワールドの舞台は整った。

© Sputnik Photo: Malla Hukkanen

 今回のテーマはズバリ、メロドラマである。初めての2人のデートの場所は映画館。観た作品はアキ・カウリスマキ監督の友人、ジム・ジャームッシュ監督のゾンビ映画『デッド・ドント・ダイ』とは、なかなかお茶目である。映画が終わった後、2人はデヴィッド・リーン監督のメロドラマの名作『逢びき』のポスターの前でおしゃべりをする。「ところであなたの名前は」「次に会ったときに教えるわ」まさか日本映画の『君の名は』をカウリスマキ監督は知ってか知らぬか、ザ・メロドラマな展開である。ホラッパは渡された電話番号の紙を、スキットル(お酒を入れる携帯用ボトル)をポケットから取り出す際に落っことしてしまう。連絡が取れない、どこに住んでいるのか、どこで働いているのかもわからない。2人は再び会うことができるのか。あとちょっとで会えたのに、会いそうでなかなか会えない。細やかな演出の積み重ねで物語が紡がれていく。名画ファンなら『心の旅路』『めぐり逢い』さまざまな作品が想起させられるに違いない。2人の恋の障害がアルコールというところが、カウリスマキ印なのではあるが。

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 この作品の前、アキ・カウリスマキ監督は、引退宣言をしていた。『希望のかなた』は、移民問題を全面的に押し出し、これまでのカウリスマキ作品とは少し趣が違っていた。観客を感化するようなことを嫌い、社会派などというレッテルを貼られることを迷惑と感じる監督が、自分のスタイルを保ちつつ、それでも現実の問題に真正面から取り組んだ作品として、新しい作品世界を切り開いたようにも思えたが、やはり何か自身、違和感があったのだろう。これは自分のスタイルではない、それでも今この世界で起こっていることに目を瞑っているわけにもいかない。そのジレンマが引退宣言に繋がったのではないかとも思う。

 そういうこともあってか、この引退撤回となった本作は、労働者三部作に繋がる新たな物語という謳い文句のとおり、原点帰りをしている。それだけでなく、2人が失業をするという点では、敗者三部作との繋がりも感じる。実際、トラムが横切るシーン他で使われるチャイコフスキー『交響曲第6番ロ短調「悲愴」』は、『浮き雲』でも印象的に使われていた曲であるし、ホラッパの友人フオタリ(ヤンネ・ヒューティアイネン)がカラオケで歌う曲『秋のナナカマドの木の下で』は、彼が主演した『街のあかり』で、出所したばかりの主人公が入るカフェで流れた曲だったりするのだ。

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 とはいえ、この作品は単に過去をなぞるものではない。そもそもアキ・カウリスマキ監督のこれまでの作品において、ここまで典型的なメロドラマというのは存在していない。登場人物たちがボソボソとしゃべり、音楽で盛り上げることもなく淡々と進む彼のスタイルにおいて、メロドラマというのは考えにくいジャンルであったのだ。しかし、この作品ではそれが見事に成功している。2人の主演俳優、アルマ・ポウスティとユッシ・ヴァタネンがいい。たとえ言葉が少なくても、感情の揺れを2人は見事に表現している。だからこそ、淡々としていたとしても、いや、むしろ淡々としているからこそ、そこに偽りのない人の感情が立ち上がってくるのである。そういう意味では、これは新しいタイプのメロドラマとも言えるだろう。

 原点ということでは、この作品は、カウリスマキ監督の映画愛がふんだんに盛り込まれていたという点にも触れておきたい。数々の名画のフィンランド版ポスターが映画館だけではなく、カフェの壁にも登場する。目で追っていると、物語をスルーしてしまいそうで、途中であきらめたのだが、おそらく自分のコレクションなのではなかろうか。

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 映画愛はこれだけに留まらない。犬の名前がそのものずばりチャップリンなのである。演出上もアンサがトラムに乗って去っていくのを、車内の灯りの光と影をホラッパの顔に映し出すことで表現しているのだが、これはチャップリンのメロドラマ『巴里の女性』で使われていたものである。ラストシーンに至っては、もうチャップリンそのものなのだ。元々、チャップリンとアキ・カウリスマキに共通点を感じていた筆者としては、とても合点がいった。貧しい人たちに向ける温かい眼差し。社会へのシニカルな視点。当人にとっては悲惨なことが起こっているのに、なぜかユーモアをもってそれが表現されていることなどである。本作はチャップリンというキー・ワードによって、それが極まった感がするのである。

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 では、今この世界で起こっていることに目を瞑ってしまったのか。もちろんそんなことはない。元々『ル・アーブルの靴みがき』以前の彼の作品では、物語と全く関係なく主人公の部屋で、暗いニュースがラジオから流れてくるというのが定番となっていた。『マッチ工場の少女』では、ニュースの中に天安門事件も含まれている。今回は、ロシア軍により病院が爆撃されたニュースなどを、刻々とラジオが伝えている。戦争のニュースを繰り返し流すことで、トピックが強調されている点が、これまでのものとは違っている。もちろん映像では決して流さない。それでは物語を壊してしまうからだ。それでもこの閉じられた空間が、世界と地続きであることを観客に意識させることで、登場人物も観客も、ニュースの中の住民たちも、同じ世界に生きていることを実感させるのである。実はこれこそ、私たちが今この世界に生きるうえで、最も大切なことなのである。自分の作品と世界をどう繋げるか。これは、カウリスマキ監督がたどり着いた、映画を製作する上での一つの結論だったに違いない。古さと新しさ、社会の冷たさと人の温かさ、ロマンチックと過酷な世界の現実、相反するものが混在してひとつの世界が作り上げられる。これはアキ・カウリスマキ監督の新たな出発点となる作品になるだろう。引退を撤回し、また素敵な作品を作ってくれたことに、心から拍手を送りたい。

※2023年12月15日(金)よりユーロスペース他全国ロードショー

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アキ・カウリスマキ映画「紳士・淑女録」最新版

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