アイム・スティル・ヒア

同じ過ちを繰り返さないために

1964年の軍事クーデターから6年経ったブラジル、リオデジャネイロ。浜辺では、人々が伸び伸びとレジャーを楽しみ、軍事政権下とは思えない、むしろ南国特有の開放的な雰囲気が漂っている。トンネルで若者たちが突然遭遇した自動車の検問。スイス大使誘拐事件の犯人検挙のためとはいえ、軍による検問はあまりにも暴力的であり、とても怖い。明るい太陽の下から暗いトンネルへ。一見平穏に見える空の下、一歩闇に入れば、軍事政権の影が忍び寄るという、これから先の物語を暗示する見事な導入部である。実際1970年当時のブラジルは「ブラジルの奇跡」と言われた高度成長期にあたり、世の中には明るさもあり、それゆえにその闇はとても深いものに感じられる。

本作は、ブラジルの軍事独裁政権下で政府組織に捕らえられ、拷問の犠牲者となった土木技術者で元国会議員のルーベンス・パイヴァと家族の実話を元に、妻のエウニセ・パイヴァの視点から作られている。ウォルター・サレス監督は少年時代、実際にパイヴァ家と交流があり、人々が自由に集うその暮らしぶりに、ブラジルの未来の理想を見ていたのだという。

妻の視点からなので、想像するしかないのだが、恐らくルーベンス・パイヴァ本人は、危険が迫っていることは意識していたのだと思う。長女を英国に送り出したこともそのひとつ。自分のやっていた仕事、それは政府から追われている人の家族に当人からの手紙を手渡すなど、人道支援的なものではあったが、それを妻に全く教えなかったこともそのひとつ。恐怖の影は刻一刻と家族に迫っていく。そしてある朝突然、ルーベンスは何者かに連行されていく。そして、数日後妻エウニセも連行され12日間拘束、15歳の娘エリアナも母と一緒に連行され、24時間拘束される。 黒い布を頭から被せられ、どこへ連れていかれるのかもはっきりしない。独房では、拷問されている人の叫び声が聴こえてくる。暗い狭い廊下の先にある尋問室で執拗に繰り返される取り調べ。椅子の下には血の跡がある。彼女たちには身体的な拷問が加えられることはないものの、他の部屋で何が起きているかは容易に想像がつく。見えないこと、それが余計に怖いし、恐らくルーベンスの身に起こったことも、これでおおよそ見当がつく。

この作品は、家族の集合写真を撮ることから始まり、それが繰り返され最後もそれで終わる。長女のイギリスへの旅立ちを励ますため友人たちをたくさん集めたパーティー。ルーベンスの事件を報じる雑誌の取材のため、妻エウニセと子供たちが集まった集合写真。年老いたエウニセを子供や孫たちで囲んだ集合写真。軍事政権の圧政が、いかに家族の幸せを奪い、後々まで傷跡を残したか。そして彼らがいかにそれに立ち向かってきたか。写真がその時々の家族の顔を、時の流れをしっかりと焼き付けている。雑誌記者にもっと悲愴な顔でと言われても、なぜか笑顔がこぼれてしまう一家。不自然な顔をするよりはありのままの姿で。「みんな笑って」とエウニセ。そこに彼らの前に歩いていこうとする決意の強さが、にじみ出ている。

エウニセには悲しんでいる暇はない。子供たちを守るため奔走する。夫が死亡したということが正式に決まるまでは、銀行からお金をおろすことさえことさえできない。収入もなくたちまち行き詰ってしまう。土地を売り、住んでいた家も人に貸し、お金を工面し、仕事に復帰する。それと同時に夫の行方を追う。友人たちを頼るが、自分の身に降りかかることを恐れて、誰もが話したがらない。それでもなんとか説得して少しずつ協力を得ていく。孤独な闘いだ。夫の失踪から25年後、ようやく政府から夫の死亡証明書が出される。ユーニスの顔には笑顔が溢れる。もう十分に悲しんでいた彼女にとっては、苦しい闘いにとりあえずひと区切りがついた、その安堵感のほうが大きかったのではなかろうか。子供たちもまた、この時初めて避けて通っていた話題、父親の死をいつ確信したかということを話し始める。死を確信していても、死者を悼むことさえできない苦しさ、これには筆舌しがたい苦しみがあるのではなかろうか。

なぜ闘い続けてきたかを問われてエウニセは答える。「軍人が犯した許しがたい行為が国家により隠蔽されてきた。偽りの報道により封印されてきた。同じ過ちを繰り返さないため、過去の軍事政権の過ちを明らかにする必要があるのです」ブラジルで新憲法が制定されたのは1988年。それからしばらくしてようやくこの国は、過去の出来事を清算できるところへたどりついたのだ。しかし、ブラジルは今再び右傾化している。1964年の軍事独裁政権を支持するボルソナロ政権の登場である。幸い、2022年の大統領選で敗北を喫し現在は左派政党の大統領になってはいるものの、彼を支持する大衆はいまだに多数いるはずだ。「同じ過ちを繰り返さないため、過去の軍事政権の過ちを明らかにする必要がある」ウォルター・サレス監督にとっても、この言葉はまさに作品を製作する動機であったのだろう。今世界は右傾化している。もちろん日本も例外ではない。過去の歴史を修正したい人たちが、国会にも多数いる。この言葉が多くの人の耳に届くことを願うばかりである。

写真:©2024 VideoFilmes/RT Features/Globoplay/Conspiração/MACT Productions/ARTE France Cinéma

※2025年8月8日(金)ロードショー

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