(ライターブログ)ダ・ヴィンチは誰に微笑む

売りに出された救世主 【映画の中のアート #25】

さて、そこでこの事象についてポイントと思える点をいくつか挙げていきたいと思います。まずは、この絵が発見されたのがアメリカだったという点。美術商サイモン氏はニューオリンズの競売で絵を購入しますが、レオナルドのオリジナルだとは思いもしません。損傷の激しいこの絵をニューヨーク在住の修復家モディスティーニ氏に託します。ところが、修復の過程で「第二の親指」すなわちペンティメント(描き直し)が発見されたことから、もしや……という可能性が生じました。模写では描き直しはありえないからです。『最後のダ・ヴィンチの真実』によると、修復家は最初からレオナルドだとわかっていれば間違いなくもっとたくさんの写真や技術的な証拠書類を残しただろうし、修復委員会を組織して専門家を招集しただろう、と語っています。しかし時すでに遅し。一方サイモン氏は、パネル破損に関する修復のプロがイタリアにいると知りつつも、絵を送ってもしこれがレオナルド作かも知れないと思われてしまえば、二度とイタリア国外には持ち出されないだろうと考えたと語っています。アメリカにレオナルドの絵は「ジネヴラ・デ・ベンチ」しかない。みすみす逃したくないという気持ちは大いに理解できます。つまり、アメリカで発見されたという事実が、この絵の運命の方向を大きく決定づけたのではないでしょうか。さらにもう一つポイントとなるのは、売買取引もまたアメリカで行われたという点です。本作にはサザビーズとクリスティーズが登場しますがどちらも本店のあるロンドンではなくニューヨークが舞台となりました。クリスティーズがこの絵を現代アート部門に出品したのも、おそらくはアメリカだからこそ。ヨーロッパであったら不可能ではないでしょうか。

さらに本作は、もっと大きな問題を提起しています。前回の「映画の中のアート #24」では『レンブラントは誰の手に』(原題:My Rembrandt)を紹介し、「レンブラント作品ともなるとその所属は国家の威信をかけた外交問題にも発展する」と書きましたが、レオナルド・ダ・ヴィンチともなると間違いなく外交問題となりました。購入者の情報は秘されるのが通常ですが、ニューヨークタイムズはサウジアラビアのバドル王子であると言う特ダネをつかみます。そして彼の陰にはサウジの皇太子ムハンマド・ビン・サルマーン(MBS)がいると噂されている……。しかも情報提供者は宮殿に軟禁されている380人の王族のうちの1人ということですから、そこに何らかの黒い背景があることは想像に難くありません。バドル王子は(ルーヴル・アブダビのある)UAEの代理で買ったとしているようですが、なぜ隣国のためにサウジがそこまでするのか?そこには、MBSが策定した「サウジ・ビジョン2030」との関係、フランスと共同で進められているアル・ウラの観光開発における利権が見え隠れします。すなわち「サルバトール・ムンディ」はこういった外交施策のカードとされたわけです。この絵を見るために世界中からサウジに人が集まってくる。そもそもイスラム教徒である彼らがなぜキリスト像を求めたのか不思議でもありますが、彼らにとってはレオナルド作、しかも「男性版モナ・リザ」と評されていることが重要だったのでしょう。没後500年記念となるルーヴルでの回顧展では、レオナルド作として「モナ・リザ」の隣に「サルバトール・ムンディ」を展示することを条件に絵を貸し出すという交渉がなされたようでした。しかし、絵を調査したルーヴルは、レオナルドは「貢献」しただけという鑑定結果を伝えます。購入者にとってこの絵はレオナルド作でなければならず(偽物を大枚はたいて購入したとあっては笑い者にされてしまう)、美術館の枠を超えてフランスとサウジは交渉を続けますが、結果はご承知の通り。いまだこの絵は表舞台に出てきていません。

さて、この絵はいつ公開されるのでしょうか……?私自身は、レオナルド作と認められない以上、サウジが公開することはないのではないかと思っています。本件については多くの調査研究や議論が必要ですが、サウジが保持している今それは望めないとも思います。そして、ここまで価格が吊り上がってしまった以上、他の国や美術館は簡単に手を出せなくなっています。この社会が、一枚の絵にそれだけの価値を付けてしまったのです。

映画の終盤に、フランス国立美術館連合代表でサウジ・アート委員会のメンバーでもあるデルコン氏が「多くの人によって研究や議論がなされるべきだ。それが文化だ」とコメントしています。私はその言葉に心から同意します。ましてや誰の目にも触れられずフリーポートに絵が置きっぱなしにされている現状が万一にでもあるとしたら、それは人類にとって大きな損失ではないでしょうか。人々がこの絵を前にして涙を流したように(例えレオナルド・バイアスがあったとしても)、絵画に値札はついていてもその感動はプライスレスだと思います。どうか将来この絵の所有者となる人が、文化という観点に立って公開に踏み切ってくれることを、心から願います。


▼絵画▼
「サルバトール・ムンディ」(1507~08)

▼参考文献▼
ベン・ルイス著/上杉隼人訳『最後のダ・ヴィンチの真実 510億円の「傑作」に群がった欲望』集英社インターナショナル

▼リンク▼
映画とアート♯24 『レンブラントは誰の手に』人はなぜ、絵画を所有したがるのか

1 2

トラックバック URL(管理者の承認後に表示します)