(ライターブログ)メアリーの総て
今年はメアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」を発表してから200年のアニバーサリーの年だという。執筆当時、彼女は18歳。もし今なら女子高校生が傑作小説を書き上げたなら、一躍時の人として連日メディアに引っ張りだこだったことだろう。しかし、19世紀はまだ女性の権利も認められず、女性には小説を書く能力もないと見做されていた時代だ。監督はサウジアラビア初の女性監督ハイファ・アル=マンスール。前作『少女は自転車にのって』ではイスラム教の厳しい規範に翻弄されつつも、少女の成長を爽やかに描いたマンスール監督だが、本作でも「女だから」と世間から見下される存在だったメアリー(エル・ファニング)がいかにして「フランケンシュタイン」を書き、発表に至ったか、彼女の孤軍奮闘を温かく見つめている。
自分を出産した後、母は死去、父(スティーブン・ディレイン)のことは慕っているが、父の再婚相手(ジョアンヌ・フロガット)とは折り合いが合わず、寂しい幼少時代を送っていたメアリー。文学好きの少女に成長した彼女は、16歳のとき妻子ある詩人のパーシー・シェリー(ダグラス・ブース)と恋に落ち(初デートが墓地!)、父の反対を押し切って駆け落ちする。だがパーシーは自称「自由恋愛主義者」で、あちこちに女と借金をつくり放蕩三昧、やがてメアリーの愛も色褪せる。授かった娘も生後間もなく、パーシーの浅慮で借金取りの目をごまかすために冷たい雨のなかを逃げ回ったせいで、亡くしてしまう。
恋人に失望したメアリーだが、その失望が原動力となり、小説を書き始める。思いのたけの総てをフランケンシュタイン博士が生み出した“怪物”に込めて。本作を見た後に「フランケンシュタイン」を初めて読んだのだが、メアリーがどんな思いで執筆したのかと思うと、胸が締め付けられる。孤独な怪物の圧倒的な哀しみ、苦悩、怒り、絶望・・・その総ての感情が孤独なメアリーと重なるのだ。過去にケネス・ブラナー監督の映画化作品や英国演劇界の最高峰と言われるロイヤル・ナショナル・シアターの創業50周年記念作品として製作された「ナショナル・シアター・ライブ」の演目(ダニー・ボイル演出、ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーが日替わりで博士と怪物を演じた)も見ていたので、どんな話かは理解していたつもりだったが、本作を見てから小説を読むと、怪物=メアリーだと感じる。彼の創造主への激しい憎悪やかすかな親愛の感情も、メアリーのパーシーへの思いと同じ。前半の見どころ(?)であるパーシーとその友人で悪名高き詩人バイロン卿(トム・スターリッジ)のゲスっぷりの描写は、見ている側からすると発狂寸前だ。傲慢で身勝手で、良いところといったら顔だけというパーシーだが、このゲスの極みだめんずがいたからこそあの傑作小説が生まれたのか・・・とメアリーの苦労を思うと頭を抱えたくなるが、運命の不思議さを思わずにはいられない。