ヤコブへの手紙

人は決してひとりぼっちでは生きていけないのだ

 フィンランドの片田舎に、12年間の刑を終えて出所したばかりの女性レイラがたったひとつスーツケースを抱えてやってくる。もう若くはない。大きな身体は周囲に威圧感を与え、その顔は、世の中を怨んででもいるのだろうか、何者も寄せ付けないといった風情である。
レイラ村へ行く 行き先は、盲目の老牧師ヤコブが一人住む、廃屋のように古びた牧師館。彼女はここに住みこみで働くことになっていたのだ。元より家もなく、頼る者もいない境遇ゆえ、刑務所から案内されたこの仕事を断るわけにもいかなかった。そこでの仕事は、牧師のために手紙を読むこと、ただそれだけ。しかし、自分自身が救われない思いでいる彼女にとって、それは鬱陶しいものであった。その手紙には、牧師を頼った人々から送られてくる悩み事が書かれていたからだ。「みんなに苛められてもう死にたいです」「夫の暴力に耐えかねています」「孫が学校に入れるか心配です」深刻なものから他愛のないものまで、悩みも千差万別ではあるが、牧師はそのひとつひとつに神の祝福を与えるのを日課としている。実はフィンランドの人たちには、誰かに悩みを打ち明けたがらない傾向があるという。相手をそっとしておいてあげることが礼儀とされているからだ。そうした意味では、遠方にいる牧師に手紙でそっと悩みを打ち明けること、そしてそれに対してささやかな祝福が返されるというこの関係は、理想的であるとも言える。
  『ヤコブへの手紙』というタイトルは、どうしてもキリスト教の「ヤコブの手紙」を連想させる。これは、おおまかに言えば、初期キリスト教の時代、迫害され、試練を与えられた人々に対して、忍耐することと、そのことの意義を説いたものである。「神の知恵」によってそれは乗り越えられるものであると。そうした意味で、牧師が試練に耐える人たちに対して祝福を与えるという行為は、やはり「ヤコブの手紙」とは無関係ではなさそうだ。しかし、映画を観るときには、このことは頭の隅に追いやっておいてほしい。この作品には、そうした宗教観を越えた普遍的ものがあるからだ。それは、人間なら誰もが経験する人生における試練や孤独の姿である。現に、牧師のベッドの下には悩み事を抱えた人たちから届けられた手紙が山のように積まれている。そのひとつひとつには、涙が一杯詰まっていることだろう。牧師の試練は、幼い頃に失明してしまったこと。レイラの試練は、孤独である。何の罪で刑務所に服役していたのか、彼女の境遇は、映画の最後のほうにくるまで明かされないが、牧師に対する彼女の態度、頑なに閉ざされた心の扉には、人には言えぬ彼女の悲しみが彫り込まれているようにも見える。
 この作品には、登場人物がたった3人しか出てこない。牧師とレイラ、それと郵便配達人だ。真っ直ぐと伸びる白樺の並木道を、いつも郵便配達人は自転車に乗ってやってくる。牧師の住んでいる家は小さな村のそのまた外れにある。教会に行くのにもかなりの道を歩かなければならない。集落がどこにあるのか映画の中ではまったく見当さえつかない。盲目の牧師と世界をつなぐのはまさにこの郵便の配達のみ、しかも読み手がいなければ、どうすることもできない。この牧師の孤独。一方ヤコブ牧師の元を出て行こうと決心したレイラは、牧師がいない隙を狙ってタクシーを呼ぶのだが、いざ行く先を告げようとすると、頭に何も浮ばず途方に暮れる。自分には家も、訪ねる相手もなかったということに改めて気づかされるのだ。この白樺の一本道は、そんな牧師とレイラの孤独を一層際立たせている。人はひとりでは生きられない。当たり前のことではあるが、普段は忘れて気にもしていないようなことが、胸に沁みこんでくる。
手紙を読むレイラ ヤコブ牧師は、盲目ゆえにかえって彼女の心が見えているようだ。一方レイラのほうは普通に物が見えるというのに、心がその目を閉ざしてしまっている。そんなわけで、どこまでいってもギクシャクして一向に馴染まない2人の生活が続く。そんなある日、毎日届いていた手紙がプツリと途絶えてしまう。手紙がこなくなってみれば、ヤコブ牧師には日々の張り合いが何も無い。ついには、寝間着姿のままベッドからも抜け出せなくなってしまう。
 なぜ手紙が突然来なくなったのか。レイラの素情を知ってしまった郵便配達人が、彼女を恐れて郵便物を故意に配達しなかったのではないか。そんなことも考えられないわけではない。しかし、映画を観ているうちにそんなことは、あまり重要でないことに気が付いてくる。むしろ彼らに与えられた新たな試練こそが重要なのである。人は生きていく中で、なぜこんなことに…といったことが少なからずある。答えがわからないことも多いはずである。それと同じことだ。人生はそんな偶然の積み重ねから出来ている。だが、例えなぜなのかがわからなくても、そこで何かを掴み取ることができれば、偶然が必然に変わり新しいものが生まれてくる。実際、レイラはこの事件をきっかけにして、心を開きはじめる。また、この事件は、牧師自身にも自分の人生の意味を悟らせるきっかけともなる。人生とは人に生かされ、人を生かすことなのだと。人にこのような変化が起こった時、その出来事は「運命」と呼ばれるものになるだろう。キリスト教の世界ではこれを「神の思し召し」と言うかもしれない。このように考えると、理由もわからないまま郵便物が途絶えてしまったこと、ここにこそクラウス・ハロ監督の意図があり、また彼の物の考え方が一番よく出ているように思う。
オススメ度:★★★★★
Text by 藤澤 貞彦

▽クラウス・ハロ監督インタビュー記事はこちら
クラウス・ハロ監督インタビュ―驚くべき本作の誕生秘話とは

2011年1月15日(土)より、銀座テアトルシネマほか全国順次公開

監督:クラウス・ハロ
キャスト:カーリナ・ハザード、ヘイッキ・ノウシアイネン、ユッカ・ケイノネン、エスコ・ロイネ
2009年/フィンランド/75分
原題:Postia Pappi Jaakobille
配給:アルシネテラン
公式サイト:http://www.alcine-terran.com/tegami/

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