トランス
これから映画をご覧になる方はご注意ください
本コーナーの第4弾はダニー・ボイル監督最新作『トランス』をピックアップ。スペインの巨匠、ゴヤ作「魔女たちの飛翔」が競売にかけられたオークション会場。2,750万ポンド(約40億円)で競り落とされた瞬間、乱入してきた絵画泥棒(ヴァンサン・カッセル)、絵画を守ろうとするオークションの競売人(ジェームズ・マカヴォイ)との攻防……。いやもう、この冒頭シーンだけで血がたぎってしまいました。
まずもって言っておきたいことは、この「魔女たちの飛翔」(1798)は実際に盗まれてはいない、と言うこと。マドリードのプラド美術館にあり、2011年には国立西洋美術館で開催された「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」のために来日しています。
このときは、「着衣のマハ」(1800-1807)が40年ぶりに来日したこともあって、鑑賞に行った方も多いんじゃないでしょうか。私も行ったはずなんですが、残念ながら「魔女たちの飛翔」は記憶にないんですよね……。言い訳っぽくなっちゃいますが、この作品のサイズは43.5×31.5㎝。結構小さいんですよね。が、実は絵画泥棒から見ると持ち運びにはうってつけの大きさ。『トランス』でもやすやすと運び出されています。また、本作では、実際に盗難に遭い今も行方知れずの絵画が何点か登場しています。中でも、レンブラント唯一の海景画「ガリラヤの海の嵐」やフェルメール「合奏」は有名どころです(FBIのページへ。いずれも1990年に米国のイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から盗難。)
では、早速「魔女たちの飛翔」を観てみましょう。暗闇の中に帽子をかぶった3人の魔女たちが飛翔し、裸の男を持ち上げています。その下には、布を頭からすっぽりと覆いながら進もうとする人、耳を押さえて伏している人。一見、魔女たちが男を浮遊させて襲っているように見えますが、現在では、無知で愚かな人間を救っているのだと解釈されています。下の人間たちは、それを拒み進もうとする愚鈍なものたち、と言うところでしょうか(右下に倒れているロバも、ゴヤの作品では愚鈍な生き物としてよく描かれています)。もともとこの作品はある貴族によって注文された「魔女の主題による6枚の絵」の1枚とされています。当時、ヨーロッパでは崇高な画像として妖術の場面がモチーフとして好まれていたとのことです。宮廷画家として成功し高貴な人たちの注文にも応じたゴヤですが、画家自身は異端審問や魔女狩りといった「権力の濫用」に批判的だったのも事実で、それらをテーマにした版画や絵画も数多く残されています。ある意味、ゴヤらしい作品と言えるかもしれません。
さて、そんな作品が白昼堂々と盗まれる! という冒頭シーンなので、絵画泥棒の映画なのかな? と思って見ていると、そう単純ではない。競売人のサイモンとギャングのフランクが手を組んだ絵画強奪計画は、サイモンが予期せぬ行動に出たことから狂い始める。絵は忽然と消え、そのありかを知るサイモンは頭を殴られた衝撃で記憶を失ってしまう。記憶を取り戻すために催眠療法士の力を借りる彼らだが、催眠(トランス)状態が進むほど、サイモンの中に封じ込められていた何かが掘り起こされてくる。そもそも、サイモンはなぜ絵画を奪ったのか? 幾層もの記憶のレイヤーを辿り、最後の「素地」が白日のもとに晒された瞬間、彼の行動の理由と絵の隠し場所が明らかになる、と言う展開です。
実は、私は観ている最中ずっとある疑問が浮かんでいました。それは、なぜ、ゴヤなのかということです。確かにゴヤはスペインを代表する画家です。しかし舞台はイギリスのロンドン、著名な画家の高額な作品はごまんとあるはず。なぜ今マドリードにある絵画をわざわざ持ち出して来たのか? その疑問を解くカギになったのが、サイモンが同じくゴヤの「裸のマハ」(1798-1800)について語るくだりでした。彼はゴヤが女性のヌードに初めて「ヘア」、すなわち陰毛を描いた画家だと語ります。それまでのヌードは、聖書の物語であってもヴィーナスなどの神話であっても「ヘア」などない。これにより神聖は失われ、裸の女はただの世俗の女となってしまったと。そもそも「マハ」とはスペインでは名前ではなく、小粋な女性、と言う意味なのでもともと世俗の女なのですが、陰毛は確実にセンセーショナルだと思います。時の宰相ゴドイの注文により描かれたこの絵は専ら個人で楽しむ類の絵画でした。腕を頭上に掲げ腋を見せながら、彼女の目は観る者を挑発しています。ゴヤの描いた魔性の女、男を狂わすファム・ファタル。では『トランス』における魔性の女とは、魔女よろしく怪しげな術を使い男たちを翻弄する女とは。そう、それは「彼女」しかありえないのです。
つまり「裸のマハ」は物語を展開するうえで重要なアイテムであり、愚鈍な人間が魔女によって導かれてゆく「魔女たちの飛翔」はこの映画そのものを表している。これこそゴヤでなければならなかった理由でしょう。しかし、マハや魔女はきっかけにすぎないのかもしれません。絵画では、カンバスにX線を照射すると別の絵が浮き出てくると言うことがあります。画家が元の絵を塗りなおして別の絵を描いている場合もあれば、別の画家がオリジナルに描き足している場合もあります(例えば、今年来日したラファエロの「大公の聖母」。暗闇に浮かび上がる聖母子が印象的ですが、背景は後世の手によって黒く塗りつぶされたものでした。X線を照射すると、元は風景が描かれていたとされています。詳しくはこちら)。言うなれば、この映画には「魔女たちの飛翔」というレイヤーの下に「裸のマハ」が仕込まれていた。しかし、その下にはさらに、人間の抱える傲慢さや欲望、嫉妬、暴力性などが塗り込められているような気がします。どんなに上から綺麗な色を、心地よい記憶を塗りたくっても、その根底にあるモノからは逃れられない。絵にX線を照射するように、覆い隠されていたものが晒されてしまう。そういう意味でも、本作はとても絵画的な映画と言えるのではないでしょうか。
最後に。『トランス』のエンドロールを観ていたら、劇中に名前が挙がった作品と制作した画家の名前がちゃんと載っていました。なんていうか、芸術作品に対するダニー・ボイル監督のリスペクトを感じますね……。確かに、これらの作品がなかったらこの物語も成り立たなかったでしょう。長い時を経て、現代の人間をもインスパイアする芸術作品。私も、これらの作品に敬意を表さずにはいられないのでした。
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▼作品情報▼
『トランス』
監督:ダニー・ボイル
出演:ジェームズ・マカヴォイ、ヴァンサン・カッセル、ロザリオ・ドーソン
2013年/米・英/102分
(C) 2013 Twentieth Century Fox
10月11日(金) TOHOシネマズ シャンテ、シネマカリテ他 全国ロードショー
公式サイト:http://www.trance-movie.jp
▼絵画▼
ゴヤ「魔女たちの飛翔」(1797)
プラド美術館/マドリード、スペイン
Vuelo de brujas Francisco de Goya
http://www.museodelprado.es/goya-en-el-prado/obras/ficha/goya/vuelo-de-brujas/?tx_gbgonline_pi1%5Bgonavmode%5D=exposed
ゴヤ「着衣のマハ」(1800-1807)
プラド美術館/マドリード、スペイン
La maja vestida Francisco de Goya
http://www.museodelprado.es/goya-en-el-prado/obras/ficha/goya/la-maja-vestida/
ゴヤ「裸のマハ」(1795-1800)
プラド美術館/マドリード、スペイン
La maja desnuda Francisco de Goya
http://www.museodelprado.es/goya-en-el-prado/obras/ficha/goya/la-maja-desnuda/
▼参考文献▼
・「ゴヤ」サラ・シモンズ著 大高保二郎、松原典子訳 岩波書店
・「フランシスコ・ゴヤ」ローズ=マリー&ライナー・ハーゲン TASCHEN
2013年11月6日
映画「トランス」奇妙に歪んだストーリーに心地よく騙される…
映画「トランス」★★★☆ ジェームズ・マカヴォイ、ヴァンサン・カッセル ロザリオ・ドーソン、ダニー・スパーニ マット・クロス、ワハブ・シーク出演 ダニー・ボイル監督 102分、2013年10月11日より全国公開 2013,アメリカ、イギリス,20世紀フォックス映画 (原題/原作:TRANCE )…