終着駅 トルストイ最後の旅

なぜ彼は最後にそこへ辿り着いたのか?

貴族の家に生まれ、若き日は放蕩の限りを尽くしたトルストイは、その過程でさまざまなものを見聞きし経験することにより、40年以上もの月日をかけて、キリスト教的な人間愛、すなわちトルストイ主義と言われている思想にたどり着く。繊細な人だからこそ傷つき、色々と物を考える過程でそうしたものが培われてきたのだが、一方で繊細だからこそ、彼は自分の恵まれた境遇に安住することができなかった。映画はそうした彼の矛盾、ジレンマを彼の言葉で聞かされる以上に具体的に、絵で見せてくれている。

印象的な場面がある。屋敷の庭で家族と秘書、医師らがいっしょに昼食を食べるシーン。そこで、誰かが買ってきた蓄音器からトルストイの演説が流されるのだが、それを聴いたトルストイは、突然不機嫌になり席を立つ。「こんな馬鹿げた文明の利器はすぐに飽きられるさ」農民たちが食べるのにも困っているときに、いっときの余興だけのためにこんな馬鹿げた高価なおもちゃを買いうなんて…第一自分が語りかけたい相手は、こんなものを買えない人たちばかりなのに…「富が人間を腐らせる」そんな風に考えたのだ。楽しい雰囲気が一瞬にして凍りついた食卓、妻のソフィヤは機転を利かせレコードを外し、おそらく若いときの思い出の曲なのだろう、ダンス曲を代わりにかけた。するとどうだろう。トルストイは突然引き返したかと思うと、ソフィヤとダンスを始めるのだ。「これはいい、とてもいい」と。この大いなる矛盾。これがトルストイその人をよく表している。

トルストイの抱えるジレンマの中で一番大きな位置を占めているのは、妻ソフィヤである。彼は妻との関係を「恐ろしいほど幸せだった」と秘書ワレンチン(ジェームズ・マカヴォイ)に語る。一方ソフィヤは、昔はふたりが良き協力関係にあり、『アンナ・カレーニナ』を自分が清書していたことを、秘書ワレンチンに語る。トルストイの思想は、時間をかけてゆっくりと作り上げられていった。妻はそれについていけなかった。

トルストイの辿ってきた道と妻が辿ってきた道、そのズレがふたりを苦しませている。なぜ夫は、家族のことをないがしろにするのか。時々昔に戻ったかのように見える夫の行動を見るにつけ、彼の真の姿を理解できないソフィヤが、その原因を高弟チェルトコフ(ポール・ジアマッティ)に求めたるのもわかるような気がする。彼女がもし、本当の悪妻であれば、贅沢を求めるであろう。けれども、彼女の求めているのは、家族が安心して暮らせるだけの財産の確保ということだけである。

トルストイは、妻を愛していながらも、自分の仕事にとっては障害になっていると思っている。そのまた一方で自分が家族に責任を持っていることも重々承知してはいるし、自分の理想の実現は、家族への裏切りになることもわかっている。それゆえその先の一歩を踏み出せない。そうした自分のふがいなさ、その思いを解き放ってくれる存在として高弟チェルトコフを頼りにしているようにも見える。そうした意味で、チェルトコフがこの夫婦にとって暗の部分になっており、一方、自分たちの若き日のことを素直に喋れる秘書ワレンチンは、ふたりにとって明の存在になっている。夫妻の関係がそのまま周りの人物に影を落としているという点が興味深い。

トルストイのジレンマは、彼の生活空間の中にも表れている。チェリャチンスク、熱心なトルストイ主義のグループが暮らす農園。皆が共同で農作業し、家族が貧しくとも平和で温かい家で過ごせるひとつの理想郷。彼もここに時々訪れては、農作業をし、木を切り、子供たちに声をかける。農民たちの服を着て彼らと過ごす時間は、彼にとって至福の時だ。ここには、妻のソフィヤはやってくることがない。けれどもよく考えれば、これは彼の想像の産物のひとつにすぎないことはすぐにわかる。そこで暮らす人々は、大学を出たり、何ヶ国語も操れたり、教養をもった人たちばかりが暮らすところ。実際のところは真の農民たちではない。モスクワの街で彼を一目見ようと集まってきた人たち、その貧しい人たちは、こことは別の世界に暮らしている。彼らはおそらく教養もなく、日々の暮らしもやっとといったところだろう。彼がいくら理想を求めてあがいたところで、彼を取り囲む人たちは、普通の農民ではなく、そこに来られる特権をもった人たちなのである。トルストイ最愛の弟子チェルトコフ、常に傍にいる主治医、彼らも結局は良い家庭に育った権威主義の輩に過ぎない。

結局、この作品を見終える時私たちは、ヤースナヤ・ポリャーナとチェリャチンスクの農園に潜む矛盾の数々、トルストイを取り巻く人々と彼の関係の数々は、それ自体が多くの矛盾点を抱えているという点で、彼の精神風景そのものとなっていることに気がつく。そして、トルストイの安住の地とは、結局「そこ」以外にはなかったのではなかろうか、そんな風に思えてくるのである。

9/11(土)より、TOHOシネマズシャンテ他全国随時ロードショー
おススメ度:★★★★☆
Text by 藤澤貞彦

原題: THE LAST STATION
監督:マイケル・ホフマン
原作:ジェイ・パリーニ
制作:2009/ドイツ、ロシア/112分
出演:クリストファー・プラマー、ヘレン・ミレン、ジェームズ・マカヴォイ、ポール・ジアマッティ、ケリー・コンドン
公式サイト終着駅-トルストイ最後の旅- – オフィシャルサイト



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