『希望の国』園子温監督インタビュー:「原発問題の渦中で映画を撮ることがすごく重要だった」 (1/2)

 “鬼才”と呼ばれる人は、当然のことながらそうそういるものではない。だから“鬼才”というのだが、とりわけ日本の映画界で目下、この形容がピタリとハマるのはこの監督ぐらいではないだろうか。『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』『恋の罪』など、実際に起こった事件をベースにしながら、そこに潜む哀しい人間の性(さが)を暴き出し、時に滑稽なまでに過激な暴力と性描写で世に問う衝撃作を発表してきた園子温監督。10月20日に公開となる待望の新作『希望の国』は、バイオレンスとセックスは封印しつつも、扱うテーマはある意味いま最も恐ろしい“暴力”、原発事故だ。前作『ヒミズ』で既に、いち早く被災地を撮影して背景としてこの問題を盛り込んだ園監督だが、改めて何度も現地を取材に訪れて撮り上げたという最新作。そこに込めた思いを伺った。


■当時を追体験してもらう。これがドラマの強み

―東日本大震災、福島第一原子力発電所の事故発生からおよそ1年半での公開。とにかく、震災から映画完成までのスピードに驚きました。園監督をそれほど突き動かしたものは何だったのでしょうか?

 やはり“鉄は熱いうちに打て”じゃないですけど、長い時間が経ってからではなく、その渦中に映画を撮るということはすごく重要だと思うんです。例えば今ごろ第二次世界大戦の映画を撮るみたいな感じではなくて。日本人は、その渦中における映画を撮るのがすごく苦手だと思うんです。でも、ほかの国だと、進行形の問題について映画にするのは非常に一般的だし、普通なんですよね。だから、海外の映画祭に行くと、「今なぜ福島なんですか?」なんて質問は無いんです。でも、日本で取材を受けると「今なぜ福島?」って訊かれる。この未曾有の事件は無視できないですよ。だから、僕がすごくそういうのに“飛びつきやすい人”と解釈されるのは残念です。しかし、何を言ってもそう取られるでしょうから仕方がないというか、構いはしませんけれどね。
 でも、『希望の国』はやっぱり今、2012年に出したい映画でした。実は、首相官邸前で何十万人も集めて原発再稼動を反対している運動を仕切っている人は僕の昔からの友人なのですが、そういった運動も含めて連帯していくっていう気持ちがすごく強いんです。

―そもそも震災発生直後の『ヒミズ』撮影中から、そうした問題を「撮らねば」と思う何かが監督の中であったのでしょうか?

 あの時はタイミングでした。それと、題材です。「ヒミズ」は2001年に作られた漫画で、2001年の日本のリアルな現実の中を生きる青春ドラマなのですが、それを2011年に映画にするにあたり、3月11日が無かったかのように描くのはいかがなものか?「ヒミズ」という漫画が持っている魂の問題に関わると思ったんです。だから、あの映画で取り入れたのは、“背景”としての3月11日以降ということ。それも、(震災直後の)5月に撮るということの意義を考えたかったんです。未完成なものを入れ込むことは、映画としてキレイにはならないと確実でしたけど、僕にとってはそういう問題ではなかった。お行儀良く、褒められるだけが映画じゃないと思っていますから。

―『希望の国』に登場するエピソードは実際に取材で見聞きした話を基に構成されているということで、どこか報道等で聞き覚えがあるなと思う状況がいくつか登場します。最初に映画を拝見した時、それらをあえて再現する意味について戸惑いも覚えたのですが、後で考えてみると、“フィクションとして出す”ことにメッセージがあるのだと思えました。

 そうなんです。僕は、ドキュメンタリーには限界があると思ってます。テープとカメラが回っていて、本当のことがいえるのか?と。僕だってこうしてよく取材を受けていて、実際に言えることと言えないことがある。だから、“カメラに本物のその人が映っているから本当のこと”なんて、そんなわけはないんです。
 もう一つは、ドキュメンタリーだと、ナレーターも取材対象も全て過去形でしゃべります。そうするとやっぱり、客観的にならざるを得ないですよね。でも、ドラマの良さは、さらに踏み込んでいける。僕の取材ではテープもカメラもまわさなかったんです。本当の声を聞いて、それをセリフにしながら、実際何が起きたかということを現在進行形で観る側に体験させてしまう。3月11日の地震発生1時間前くらいから始まって、実際に福島にいなかった人にも登場人物とともに当時のことを追体験してもらえることがドラマの強みだったんです。

■やっぱり、どこかで映画の力は信じている

―園監督はこれまで様々な事件や社会問題を題材に映画を撮ってこられましたが、劇映画が社会で果たせる役割については、どう考えてらっしゃいますか?

 最初の話ではないですが、渦中にある題材を映画に取り込んで、大きな“出口”で出せれば本当は一番いいんです。例えば『踊る大捜査線』みたいに、TOHOシネマズで超拡大ロードショー!なんてできれば、『希望の国』だってもっとデカくなるし、もっと多くの皆さんが観て原発について話し合うきっかけにもなるはずなんですけどね。でも残念ながら、この映画はイギリス、台湾との合作ですよ。日本では製作資金すらなかなか集まらない。もっとフランクに、原発に関する映画を撮れる環境があるべきですよ。
 何が社会的な役割なのかは僕には分かりません。よく、「こんな映画を撮ったからって、世界が動くわけじゃない」って言いますけど、それでは何をやったって動かない。そういう人は、すぐ「デモに行ったって何にもならないじゃん」みたいなことも言いかねないんですけど、そこには必ず動いた分の何かがあるはずなんです。
 『ロゼッタ』(99/ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督)という映画がありますが、これがきっかけでベルギーでは「ロゼッタ計画」という青年の雇用創出に関する制度が生まれて、若者をちゃんと保護するようになったんですよね。だから、映画には力があるんですよ。向こうには芸術映画をそこまで高みに上げるという土壌があるけど、日本にはまだその基盤がないですよね。でもやっぱり、どこかで僕は映画の力を信じていますよ。

―影響を及ぼされて時にトラウマになるほどの映像体験って、映画を観る醍醐味でもあると思うんです。園監督の作品には、ショッキングな画や映像が強烈なインパクトを与えるものが多いですが、やはり観客に“一撃を与えたい”みたいなお気持ちがいつもあるのですか?

 一撃与えるというか……そうじゃないと、他の方は何のために映画を作っているのか聞きたいですよね。

―最近は“癒し”を謳った映画が多いですよね。

 癒される前に僕なんか寝ちゃうけどね(笑)。いい睡眠がとれて癒されるのかもしれないけど。僕は観るものが洋画中心なんです。だから、自然に撮るものもそうなっているだけだと思います。例えば、ラース・フォン・トリアーの作品は、なんだかすごく異常な映画みたいに思われがちですけど、彼の新作のDVDなんてヨーロッパでは棚3段使って『海猿』みたいな扱いですよ(笑)。『アンチクライスト』(09)のDVDがコンビニやスーパーでカゴ売りされてるくらい普通。日本ではあまりにも安全無害な映画が撮られ続けてるから、僕の映画がちょっと目立っちゃうだけで、海外に出すと普通です。だから、向こうで勝負してみたいなとも思っているんです。向こうの普通レベルとして、どのくらい目立てるのかと考えたりしています。

―ちなみに、最近ご覧になった洋画で凄いと思われた作品は?

 作品というより現象として凄いなと思ったことですが、アメリカのインディーズ映画『ウィンターズ・ボーン』(10)で評価されたジェニファー・ローレンスが超大作の『ハンガー・ゲーム』(公開中)の主役になれるっていうのは、腐ってもハリウッドだなぁと思うんですね。日本の感覚だと、そんな大作の主役は絶対有名俳優になりますよ。そういうところは、やはりシステムとして素晴らしい。いまだにそこに挑める国なんですよね。日本の自主映画からではあり得ないですよね。

―日本にはやはり口当たりのいい映画、製作においても安全パイを求める傾向が強いですからね。

 観客がダメなのか、作り手がダメなのか……ニワトリが先か、卵が先か分からないです。よく、過激な映画だと「お爺さん、お婆さんにこれは過激すぎる」とか言われたりするけど、今のお爺さんお婆さんって、『仁義なき戦い』とか『イージーライダー』を観てた人たちですよ(笑)。若いうちから癒し映画ばかり観てる若者に比べて、今の中高年の人たちの方が過激な映画で育ってると思うんですよ。

                     (2/2)へ続く

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