ネコを探して
この映画にはたくさんのネコが登場する。廃止寸前の駅を救った駅長のタマ、鉄道員ネコのエリカ、おくりネコのオスカーその他有名無名の世界のネコたち。ネコ好きにはたまらない。映画は、行方不明になったクロを飼い主の女性が探す時空を超えた旅に出るところから始まる。鏡の向こうの別世界にクロが入って行ったという設定だ。
この作品で興味深いのは、ベル・エポックのキャバレーにたむろする当時の文学者や哲学者たちに交じって、夏目漱石の姿が見えること。漱石と言えば『吾輩は猫である』だ。「無理にあがくより、自然に身を任せよう」という名無しの猫がこの作品の思想と一見一致する。案外、「吾輩は猫である」は、この映画のヒントとなっているのかもしれない。猫を通じて描く人間社会、それこそこの映画そのものだからだ。
最初に社会問題として取り上げられるのは、かつて、漁師とネコが寄り添うように生きてきた水俣。ここでは、ネコは鼠を取り、漁師から魚のごちそうをもらうという協力関係が存在していた。ベタベタせず、一定の距離を保った彼らの関係こそ、理想の世界であったはずなのだが、ご存知のとおり水銀に汚染された魚を食べたネコと漁民が次々と病に倒れていった。会社のほうは、その事実を知りながら利益優先のため因果関係を認めず、そのためその実証に迫られた漁民の側はたくさんのネコを調査のため犠牲にせざるを得なかった。今も病気に苦しむ住民の生の証言と、犠牲になった猫の慰霊碑に心が痛む。企業の利益優先、物質主義に偏り過ぎすことが、庶民の慎ましやかではあるが、自由で幸福な暮らしというのを害している。その究極の姿がここ水俣である。
またこの作品では、ネコに愛くるしい洋服を着せ、子供のように接したり、大人が可愛いネコ・グッズを買い求めたり、「可愛い」が物事の基準になる日本の文化に疑問が呈されている。確かに欧米ではこうしたことが異様に映るらしい。そうした意味では、多少文化的な誤解の側面もあるかとは思うのだが、単に可愛いからと安易な気持ちでネコを買う人たちによって、あるいは「商品」として売れ残ってしまったネコたちが捨てられ、大量に殺傷処分されているというのは現実である。「可愛い」ことに商品価値が生まれ、それがビジネスになった時、人とネコとの関係はいびつなものになっていったという理屈には一理ある。
ここでは、取り上げ切れないのだが、作品の数々のエピソードに共通していることは、人とネコの関係の変化の背後には、自由が無くなっていく社会というものがあるということである。クロは、自由の象徴。彼を探す旅というのは、それを確認することであった。なぜ自由がなくなっていくのか。それは、個人よりも会社の利益、特に近年では株主の利益が優先された結果だという。奇しくもそれは、「社会が発展していく過程で、個性が踏みつけられる」という夏目漱石の小説のひとつのテーマとも合致している。
しかし、彼らの「自由、平等、博愛」の思想と、日本の感覚にはあきらかにズレがある。「本来自由であるはずのネコ、駅長のタマがあんなに窮屈な生活を強いられてよいのだろうか」というのがフランス的であるとすれば、「彼は窮屈そうには見えるけれども、ネコ本人がイヤな顔もせず、むしろ満足そうにしているのだからかまわないじゃないか。第一、嫌なら逃げるはず」これが日本の感覚。まさに本来、漱石のネコが言うところの「無理にあがくより、自然に身を任せよう」である。この違いを作者が理解せずして、日本の社会を問題として数多く取り上げている点が、この映画、まるでフランス人が描いた浮世絵を見せられたみたいな感覚にさせられるところがある。
オススメ度★★★
Text by 藤澤 貞彦
【監督】ミリアム・トネロット
2009年フランス映画/89分/ビスタサイズ