落下の解剖学
(映画の結末に触れています)
⼈⾥離れた雪⼭の⼭荘で、男が転落死した。男の妻に殺⼈容疑がかかり、唯⼀の証⼈は視覚障がいのある 11 歳の息⼦。これは事故か、自殺か、殺人か―。
本作の惹句はミステリファンを強く引き付けるが、真実の解明で終わる映画ではない。そこでガッカリする人はいるかもしれないが、私自身は非常に恐ろしく、面白く、そしてよく練られた巧妙な映画だと感じた。
まず、何が恐ろしいと感じたか。物語が進むにつれ明らかになるのは、死んだ男とその妻(ザンドラ・ヒュラー)の夫婦仲がうまくいっていなかったことである。正直なところ、カップルの喧嘩やすれ違いって、よくある話ではないか。「自分の方が仕事が忙しい」「自分の方が家事で大変だ」「子どもの面倒は自分ばかり」「不公平だ」「でも自分は強制はしていない」「あなたが自分で勝手にやっているだけ」。こういう喧嘩はよくある。あるある感満載だ。カップルではなくても、友人でも職場でも、人間2人いれば発生しそうな話である。時には激高したり、思わず嘘をついてしまうこともある。しかし、それがどうだろう、もし相手が突然不審な死を遂げたら。一転してあなたは殺人犯として疑われる。完璧なアリバイもない。目撃者もいない。前日にも派手な喧嘩をし、自分には不利な状況ばかり。自分は殺していないと言っても、弁護士には「それは重要ではない」と返される。やっていないことの立証は極めて困難だ。つまり、誰にでも起こる可能性ということが私は非常に恐ろしかった。
また、よく練られていると思うのは、仕事に行き詰まった男と成功した妻というキャラ設定である。これが、成功した夫と仕事に行き詰まった妻だったら、つまり男女の立場が逆だったら、それほど大きな波紋は起きないのではないだろうか。男の傷ついたプライドや妻への嫉妬は、映画を観る者や社会に存在するバイアスを通して、妻を悪女に仕立て、彼女ならやりかねないと思い、いつしか成功者の破滅(落下)を期待する方向へ向かう。そしてその方がドラマとして面白いと私たち自身もどこかで思っているのではないだろうか。告白すると、自分は「実は11歳の息子は目が見えているのではないか?」とか「あの犬が転落死に関して能動的な役割を果たしているのではないか?」と思ってしまった。ドラマとしての面白さを追求するあまり、刺激やどんでん返しばかり期待するようになっていた自分が恥ずかしくなった。
最後にもうひとつ唸らされたのは、妻が実際にあった出来事からフィクションを構築する系の小説家という設定であることだ。私たちはどうしても作者と作品を切り離すことが難しい。実際、作者が何かの罪で罰せられたとき、その作品をどう評価すべきかは迷うところだろう。劇中で検事が被告(妻)の小説の一節を読み上げ、その文章に非人間的な人格を見出そうとするが、「じゃあスティーヴン・キングは殺人鬼なのか?」という被告側弁護士のツッコミには思わず笑ってしまった。たとえ私小説であっても、どこまでが事実でどこからが創作なのかの線引きは小説家自身にとっても難しいだろう。創作のアイディアをめぐっても、妻は同じ小説家を志していた夫と口論にもなっていて(「妻が夫のアイディアを盗用した」)、原案と原作、脚色といったセンシティブな問題を突いているなと思う。
結果として、事故か、自殺か、殺人かは分からないままだが、最後まで「やったのか?やってないのか?」を悟らせてくれなかったザンドラ・ヒュラーの演技は素晴らしかった。
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