カゾクデッサン
『カゾクデッサン』このタイトル。デッサンというのが、この作品のテーマをピッタリ表している。スケッチでも、クロッキーでもなくデッサン。大まかに描いていくのではなく、試行錯誤し修正を加えながら、時間をかけて細かく描いていく作業。この映画の登場人物たちの行動それぞれは、デッサンしていく作業によく似ている。また、家族ではなくカゾク。家族という型に嵌るのを忌避するかのようでもあり、そこに作者のこだわりが出ているのである。
恋人(瀧内公美)のバーで働く元ヤクザの剛太(水橋研二)の元を、突然、元妻(中村映里子)の息子光貴(大友一生)が訪れる。今では再婚し家族3人で暮らす元妻と剛太との間には接点がほとんどなかったことが、彼が光貴をすぐには認識できなかったことから窺い知れる。光貴は、母親が交通事故に会い意識が戻らないため、昔の夫が声を掛ければひょっとして意識を取り戻せるのではと、一縷の望みをかけて剛太の元を訪れたのだった。恋人と暮らしていても、過去の出来事に捉われ心は乾き、それを癒すかのように酒を呑み、さらに心が乾いていくというような生活を送っていた剛太だったが、この時は意外なことにすぐに行動を起こす。
元妻に未練があるというのではない。剛太の中で過去の記憶が蘇る。かつて親子3人で暮らしていたこと。その生活を自分でぶち壊してしまったこと。幸福にすると誓ったはずの妻を不幸にしてしまったこと。自宅の窓ガラスには、彼の心の中の若き日の風景が映し出される。かつて住んでいたアパートに寄ってみれば、開くことのないドアの向こうから、当時の音が聴こえてくる。それらは手が届きそうなところにありながらも、当たり前だが、決して触れることができないものだ。現在を問い直さない限り、過去の記憶は悔恨で埋めつくされたままなのである。気持ちの整理がつかない過去こそが、彼を動かしているのだ。
ベッドで眠り続ける母を真ん中にして、剛太と光貴の父(大西信満)が再会する。父は妻の元夫の剛太の登場に怒りさえ覚え、彼に会うことを息子に禁じる。剛太と光貴の父。夜の世界の住人と昼の世界の会社員。都会の片隅のアパートと郊外の一軒家での生活。家族未満の関係と典型的な幸せな家族の形。過去に生きる男と過去を否定する男。光貴は、すべてが父とは正反対である剛太に惹かれていく過程で、実は剛太こそが自分の本当の父親なのではないかという疑念を抱き、それはやがて確信へと変っていく。
母親が意識を喪失していなければ再会しなかった彼ら。どちらが光貴の父親足りえるのか。彼女が眠り続けるがゆえに、家族とは何か、息子にとって父親とは何かということを、彼らは突き付けられる。剛太と光貴の父は、どちらも現実とは向き合っていない。剛太は過去に捉われ、一方光貴の父は過去を否定している。彼らは身近な人とも正面切って向き合えていない。剛太の前には常にカウンターがある。カウンター越しに、あるいはカウンターの椅子で横並びに恋人や光貴と対峙する。光貴と彼の父との間には、常に妻の寝ているベッドが存在している。その距離感がそのまま息子との気持ちのズレを生んでいるかのようにも見える。
その状態を破るのが、自分には剛太の血が流れていると思い込み、突然暴力的になる光貴の行動である。剛太と光貴が、光貴と彼の父親が、身体と身体でぶつかり合う。そこには単に肉体的にというのではなく、魂と魂がぶつかり合うかのような感覚がある。愛があるもの同士、本気だからこそ、そこで何かが通じ合う。剛太は光貴との関係の中で過去を修復し、現在に生きられるようになる。光貴の父親は、過去を認めることで、息子との関係を修復し、現実と向き合えるようになる。
光貴の本当の父親は誰か。後半そのことが明らかになるが、家族にとって血はあまり重要なことではない。それよりも、彼らのこれまでの記憶が大切であり、それと向き合うことが大切なのである。そこに情が流れれば、それでもう立派な家族になれるのである。例え同じ血が流れていたとしても、逆にそこに記憶や情がなければ、家族にはなりえないのである。タイトルを「家族」ではなく、「カゾク」とした理由はそこにあるのではなかろうか。世間一般で言うところの家族、国や法律が言うところの家族を否定して、本当の意味での家族とは何かということをデッサンしていくこの作品には、「カゾク」という言葉がよく似合う。何でもネットで済ましがちで、ますます人と人とのの距離感が離れていく現代、登場人物たちが描くデッサンは、方法としては泥臭くもあるが、「家族」という言葉に捕らわれないという点では、因習的ではなく、むしろ現実的で現代的なのである。