【FILMex】枯れ葉(コンペティション)
イラクリの娘リサが1通の手紙を残し、家を出ていった。どこに行ったかもわからない。不安を感じたイラクリは、スポーツ写真家のリサが、最後にジョージア(国)の辺境のサッカー場の写真を撮る仕事をしていたことから、彼女の仕事仲間であるレヴァニ(その姿は見えない!)と共に彼女を探す旅に出る。全編が2000年代のソニーの携帯電話のカメラで撮影されていることから画像が極めて粗い。人の顔もはっきり見えないし、景色に至ってはボケボケである。上映時間3時間、リサは終盤まで見つからず、ひたすら自動車に乗り、古いサッカー場を追い続けるばかりである。独創的と言えばそうなのかもしれないが、なかなか辛い。当初の予定では、この映画は5時間もあったという。弟でこの映画の音楽を作ったギオルギ・コベリゼ氏が、それではいくら何でも誰も観てくれないよと言ったところで、4時間になった。2人が母親に見せ、1時間ちょっとの作品にしなさいと言われて、泣く泣くカットし、ようやく3時間になったのだという。
思わず「何が彼をそうさせたか」と呟いてしまう。携帯電話のカメラの映像は、時々息をのむように美しい瞬間がある、もう薄暗くなりかけた光の中で、広いサッカー場を遠くから写す時、赤い洋服を着た人がそこを横切っていくその瞬間は、まるで印象派の絵画のようでさえある。どことなく、アッバス・キアロスタミ的な雰囲気を醸し出すところもある。綺麗な映像に慣れてしまっていて、携帯時代の粗い画像を忘れてしまっている観客にとっては、少なくとも世界が驚くほど違って見える。過去の風景をぼんやりと見ているような不思議な感覚に陥るのである。
なぜアレクサンドレ・コベリゼ監督はサッカー場をひたすら追い続けたのか。監督がサッカー好きで、ファンとして、無くなりつつある風景をコレクションとして残して置きたいと気持ちはわかる。きちんとしたゴール・ポストがあるものから、鉄のポールだけが立っているもの、単なる木のポールだけしかなく、草に覆われ、そこがサッカー場だと言われなければ、気が付かないようなものまでさまざまであり、記録的な価値はあるかもしれない。しかし、それなら美しい映像で残しておきたいと考えるのが人情だろう。携帯の画像は、どこかノスタルジーになってしまう。今の風景なのに、まるで失われてしまった昔の風景を見ているかのように。
ジョージアでは、今サッカー熱が高まっているという。サッカーのプレイ人口はこの5~6年の間に3倍に増えたという。グラウンドをはじめとした施設の充実が図られ、スタジアムの建設や改修、国内各地にトレーニング場も整備された。そんな中で、古くからのサッカー場は、役目を終えつつある。多くの人たちがボールを追いかけたゴツゴツとしたグラウンドは、彼らの汗を吸い込み、踏みならされた土の痕跡と共に消え行く運命にあるのである。
ジョージアにとって、サッカーとは何なのだったか。この国におけるサッカーの歴史は、その勃興期が、1905年来の革命運動から1918年のロシアからの独立、1922年のソ連への加入までと、時代が重なっている。また1991年ソ連から独立の1年前には、既にジョージア単独での代表チームが作られ、独立と同時にナショナルチームが誕生している。自分たちだけのチームを持ち、国際試合に出場したい。その思いは、ソビエト時代から思いがグツグツと、鍋の底の方で煮え立っていたのである。そう考えると、サッカーは愛国心と密接に結びついていると想像できる。こうした歴史を見てきた場所、それこそが、どの町や村に存在していた、サッカー場ではなかったか、そんな気がする。いわば、携帯談話のカメラで見るぼんやりとした世界の向こうには、過去が存在しているのである。イラクリが道を尋ねる人の中に、姿が見えない人たちがいるのは、ソ連の統治下で、波乱の人生を歩んできて、もうそこにはいない過去の人たちなのである。もしかすると、平和であったのであれば、そこに存在したであろう人たちなのかもしれない。その者たちとの会話は、ぼんやりとした今とも昔ともつかないおぼろげな映像だからこそ、成り立つものである。サッカー場をひたすら追い続けることとは、過去と対話することなのだ。
この作品が歴史を意識していることは、1人の老人との会話からも窺い知ることができる。小学校の時の先生が、自分が元神父であることを隠して教壇に立ち、いつも授業の最初にジョージアの昔話をしてくれたことを懐かしそうに語る。これは、1930年代のスターリンによる無神論の強化政策のことを指している。教会や修道院は閉鎖、あるいは破壊され、聖職者は徹底的に迫害された。元々、ジョージアにおけるキリスト教の歴史は紀元4世紀に遡り、文化と歴史に深く根付いたものだったのだが、これによって、徹底的に破壊されたのである。もし先生が神父であるこがばれたとしたら、すぐに当局につかまってしまうことは明らかだ。ジョージアの文化を体現する元神父の先生にとって、昔話をすることは精いっぱいの愛国心の発露であったし、生徒たちもそれを十分に理解していたのだろうと思う。
この作品では、娘リサ、イラクリ、イラクリの父親世代の老人、その小学校時代の先生。4世代の人たちの話が登場している。それぞれが、ジョージアの歴史と対峙しているのである。複雑な歴史を歩んできたジョージアにとって、世代間ギャップは計り知れない。イラクリが60代半ばとすると、ソ連の教育で育ち若き日々を過ごした世代。その娘リサが30代後半から40代、物心がついた頃にはソ連が崩壊しジョージアが独立した世代。途中で話をする老人が90代、スターリンの圧政を知る世代ということになる。イラクリがリサの歩いた場所を訪ねていく。これは、子供世代と親世代の、ひとつの対話なのである。実際にリサは父親が取る行動がわかっていたようで、その後同じ場所を歩いてきた父親と、話をしたいと手紙を残している。そのことが世代間ギャップを埋め、父娘の繋がりを今よりも深いものにできると考えていたのだ。
アレクサンドレ・ゴベリゼ監督自身は、1984年生まれで現在41歳。驚くべきことに、イラクリを演じたのは彼の実の父親である。2人の年齢は、映画の中の登場人物と当然ながら重なっている。現実の世界で彼は、映画撮影と同時に、父親とそうした対話をしていたことになる。イラクリの同行者、姿が見えないレヴァニは、もしかすると、アレクサンドレ・ゴベリゼ監督自身だったのかもしれない。東京フィルメックスのQ&Aの中で、実の弟であるギオルギ・ゴベリゼ氏が「この映画は、アレクサンドレが父に捧げる手紙なのではないかと感じることがあった」と語っているように、これは複雑な歴史に翻弄される中で生じてしまった世代間ギャップを克服し、父と息子がお互いに理解しあうための、アレクサンドレ・ゴベリゼ監督と、父親の旅であったとも言えるだろう。「何が彼をそうさせたか」…当初は5時間に及んだ携帯カメラのおぼろげな世界、泣く泣くカットして3時間になったこの作品は、すべてが監督にとって、父親との大切な時間だったのだろう。サッカー場のひとつひとつ、そこで交わされた父親とそこに実際に住む人々の会話、動物たちと邂逅。「道がどこまでも続いていて、どこへでも行ける」内戦が長く続いたジョージアにとって、それは平和であることの証であり、何より大切なことである。その道を噛みしめるかのように歩いた父親との時間を、どうカットしたらわからないという監督の気持ち、それが「彼をそうさせた」のだろう。
(スペシャルメンション、学生審査員賞受賞)
第26回 東京フィルメックス 開催概要
会期:2025年11月21日(金)〜 11月30日(日) (全10日間)
会場:有楽町朝日ホール ヒューマントラストシネマ有楽町
プレイベント:第26回東京フィルメックス 「香港ニューウェーブの先駆者たち:M+ Restored セレクション」
会期:2025年11月14日(金)- 11月18日(火)
会場:ヒューマントラストシネマ有楽町
主催:特定非営利活動法人東京フィルメックス
共催:朝日新聞社
東京フィルメックス公式サイト