(ライターブログ)ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像

Ars Longa,Vita Brevis 【映画の中のアート #20】

(以後、映画の結末に触れている箇所があります。これから鑑賞される方はご注意ください)

イリヤ・レーピン「ヴォルガの船曳き」

さて、オラヴィを虜にした肖像画。彼はその審美眼でイリヤ・レーピン作ではないかと考えます。19世紀革命前後のロシアで活躍したレーピン(1844‐1930)。日本ではなじみが薄いかもしれませんが、「怖い絵」シリーズで知られる中野京子さんの著作で認識された人も多いのではないでしょうか。当時のロシアにおける過酷な労働実態を描写した「ヴォルガの舟曳き」(1870-1873)でデビュー。その後「移動派」として活躍する中、自分の息子を撲殺してしまい呆然とするツァーリの姿を描いた「イワン雷帝とその息子」(1885)、ピョートル大帝と政権を争った「皇女ソフィア」(1879)などの歴史画も手掛け、ツァーリズムに批判的な立場の画家として注目されますが、革命後の晩年はフィンランドに亡命しその生涯を終えます。

イリヤ・レーピン「イワン雷帝とその息子」

ゆえにフィンランドにとってレーピンは縁がある大画家であり、映画に登場する富豪もレーピンの絵画を欲しがります(「レーピン作はロシアがなかなか手放さない」と語っています)。本作に登場する肖像画はレーピン作として実在するものではないとのことですが、オラヴィは彼の手によるものではないかと睨み、地道な調査を進めていきます。美術商のラスト・ディールとして、レーピン真筆を発掘し例の富豪に高値で売ることができれば、これ以上の幸福はないでしょう。

しかし、真筆であることの証明は困難を極めます。来歴はある程度掴めるものの、一番の決め手となる署名がありません。なぜ署名がないのか。絵画が一部切り取られたり、他者による修復等で消失する場合もあるでしょう。また、作品が制作された時代や背景、画家によっては署名がないものも多くあります。しかし、ゴッホの「ひまわり」のように、他の作品にはあるのに署名がないと言うことで贋作ではないかと疑われることがあるのも事実。本作でも、無署名が焦点になりますが、それは「肖像画の人物が誰なのか」と言うことと強い関連がある、と答えを出しています。肖像画の人物……それは、キリストです。絵画そのものが聖画となるため画家は署名しなかったのではないか。なるほど、と言える結論です。しかも、それがキリストの絵となると、ある絵画が想起されます。「サルバトール・ムンディ(世界の救世主)」。2005年に美術商が落札したとある絵画が、修復の結果、レオナルド・ダ・ヴィンチの筆によるものという判断が2008年になされたのです。出品当初は重ね塗りがひどく、全く別の画家の作品とされていたとのこと。署名などもありません。もともと「サルバトール・ムンディ」はレオナルドの作品として記録には残っており、弟子や後世の画家たちによるコピー作や模写も多くありますが、オリジナルの所在が長らく不明とされていました。それが、落札後に修復家の手により過剰な上塗りが落とされ、赤外線撮影で調査したところペンティメント(描き直し)が見つかり、鑑定の結果オリジナルであるとされました。レオナルド単独の作ではなく、弟子との共作、レオナルド工房作ではないかという意見もありますが、没後500年近くたって巨匠の作品が発見されるというニュースは、美術ファンの心を湧き立たせる出来事でした。現実でもこうなのですから、本作のようなことがあってもおかしくないと思うわけです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「サルバトール・ムンディ」

さて、映画に戻りましょう。オラヴィが悩まされるのはさらに現実的な問題―資金繰りでした。落札する金がない。彼は予定より早く自分の店を畳んで他人に譲渡しますがそれでも足りず、挙句の果てに娘に金を無心して怒らせてしまいます。正直なところ、あのシーンは誰もが娘に同情し、彼を軽蔑してしまうでしょう。絵を得るために男は全て投げ出し、人間関係をも破綻させてしまう。そうして資金をかき集め落札できても、今度はその絵が売れない。レーピン作だという証明ができないからです。果たしてこの絵画は、神が人生の最後に与えた贈り物なのでしょうか、それとも人生を狂わせる魔物なのでしょうか……?

人生はままならない。本作のベースに流れる「苦み」は、確かにあります。必死に生きても報われるとは限らず、何もかも失ってしまうかもしれない。最後にと願った望みも叶わず終わるかもしれない。しかしながら、思わぬところで何かを得たり、身近なところに小さな幸福があったり、失敗から立ち直りやり直すことができるのもまた人生です。大切なのは、それに気づけるかどうかということ。映画のラストは、情熱を持って人生を貫いた年長者への敬意と、未来ある若者への継承がしっかりと感じられるものでした。そしてま、本作に登場した幻の絵画の作者を、懸命に生きる平凡な人々の姿に光を当てたイリヤ・レーピンとしたのは、的を射たものだったと感じます。

Ars Longa,Vita Brevis―だからこそ、人生を賭して追う価値があると、私は思います。


『ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像』
2020年02月28日 ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか公開
© Mamocita 2018

▼絵画▼
イリヤ・レーピン「ヴォルガの船曳き」1870-1873年 ロシア美術館/サンクトペテルブルグ、ロシア
イリヤ・レーピン「イワン雷帝とその息子」1885年 トレチャコフ美術館/モスクワ、ロシア
レオナルド・ダ・ヴィンチ「サルバトール・ムンディ」1490-1519頃

▼参考文献▼
「怖い絵」中野京子 朝日出版社
「怖い絵 死と乙女編」中野京子 角川書店
「欲望の名画」中野京子 文藝春秋

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