【TNLF】X&Y
<アンナ・オデル監督作品を楽しむための5か条>
1 劇中のアンナとそれを演じるアンナ・オデル監督は、現実とフィクションの領域が曖昧ですが、同一ではありません
2 どこからが現実で、どこまでがフィクションかはご想像におまかせします
3 不安な気持ちに掻き立てられますが、挑発に乗ってはいけません
4 劇中あまりにも痛々しいアンナ・オデルご本人以外の俳優たちは、本当に傷をつけられていないのでご安心ください(身も心も)
5 決して腹をたてて、途中で退場しないでください
前作『同窓会/アンナの場合』の時と同じように、自虐的で破滅的、挑発的で衝撃的なアンナ・オデル節が炸裂した作品である。とても計算された作品でありながら、わざわざ「この作品のどこまでがドキュメンタリーかフィクションかは当事者にしかわかりません」とまで、断り書きをする念の入れかたで、観客の不安を煽っている。出演者のミカエル・パーシュブラントは『未来を生きる君たちへ』『ホビット』シリーズにも出ている、日本でも知名度の高い俳優。他にも、トリーヌ・ディルホム『未来を生きる君たちへ』、ソフィア・グロベル『きっといい日が待っている』などきっとどこかで見たはずの、ベテランの俳優たちが揃えられている。
やり玉に挙げられる?のは、ミカエル・パーシュブラント。これは彼の内面を、面接を通じて分析し、それを芸術性、破壊性、内向性などのパートに分け、6人の俳優にそれぞれを演じてもらうという、実験なのである。ミカエル・パーシュブラントへのインタビューを終えると、今度は俳優たちを集め、セットの中で数カ月間過ごしてもらう。彼らに役を割り当て、即興で演じてもらうなかで脚本を作っていき、最終的に映画としてまとめていく。その際、脚本作りに役立てるためその過程も映像に記録していくというプランである。この作品は、その記録映像で構成されている。
アンナ・オデル監督が一番こだわるのが、性である。男性と女性、その違いへのこだわりは執拗で、病的でさえある。実はタイトルの『X&Y』もそこからきているのだ。作品の準備過程において、逆セクハラのようなことがしはしば行われ、出演者たちの不満が募っていく。なぜ、そこにこだわるのか、作品の意図はどういうことか、尋ねられても、オデル監督は決して答えようとはしない。挙句の果てには、ミカエル・パーシュブラントと本物のSEXをして子供が出来れば、それは芸術の子になるなどと、わけのわからないことを言いだす始末である。
数か月経っても、脚本はできる気配がない。それにも関わらず、俳優たちにはおかしな要求ばかりが出されるが、その意図を聞かれても、答えようとはしない。「こんな素人監督は、素人を使って映画を作るべきだ」「あなたは頭が狂っている」業を煮やした俳優たちから遂に罵声が浴びせられ、映画は空中分解していく。記録映像と歌っているだけに、この状況は観客にも耐えがたい。
ここからは、映画を観てからご覧ください
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しかしながら、ここで観客がもはや耐え難いとい感情をもっていたとしたら、それはもう既に、アンナ・オデル監督の術中に嵌っているのである。こんなことをして倫理的にどうなの。観客がそう思ったとしたら、アンナ・オデル監督の意図は正確に伝わっていることになる。そもそもミカエル・パーシュブラントの内面を探る実験ということ自体が、はなはだ怪しいではないか。実はこの作品で徹底的に描かれているのは、今世界の映画界、日本の映画界でも話題になっているパワハラ、セクハラの問題なのである。精神的にも、肉体的にも追い詰められる俳優たち、その苦痛を肌で感じてもらいたいが故の、これはいわばフェイク・ドキュメンタリーなのである。しかも映画の中の監督は女性である。アンナ・オデル監督は、『X&Y』のYとXを逆にすることで、特に男性に向けて、ダメージを与えようとしているのである。弱者が苦しんでいても何も気が付かない強者の理屈、世間の無関心に風穴を開けようとしているのである。『同窓会/アンナの場合』で数々の賞を取って、いい気になっているエセ芸術家、奇抜なことばかりを考えすぎて混乱しているただの頭のおかしい女。セルフ・パロディとはいえ、こちらが見ていて痛々しさを感じるほどまでに自分を貶めてまでこの問題を伝えようとした、彼女の勇気を称えたい。
【開催概要】
トーキョーノーザンライツフェスティバル 2020
会場:ユーロスペース、アップリンク渋谷
会期:2020 年2 月8 日(土)~2 月14 日(金)
チケット先行販売:2020年1月11日~24日 1300円均一
チケット一般販売:一般/1500円ほか 各上映3日前よりオンライン、窓口にて
公式 WEB サイト:http://tnlf.jp/
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