『巡礼の約束』ソンタルジャ監督

政治的、宗教的な議論には興味がありません

ーーチベットの若者はどのような方法で映画を見ていますか?

中国内陸部は人口も密集しているので映画を見るという娯楽のスタイルも出来上がってきましたが、チベットでは人が分散していますから、スマホやテレビで見ることはあっても、映画館で見るという習慣はないですね。私の故郷は小さい町で、一番設備の整った映画館ですら基本的にいつも閉まっていました(笑)。

ーー動画配信サービスの充実などが、チベットから都会に出て映画を志す若者の増加につながってはいるのでしょうか?

そのパターンは多いですが、とても難しい道です。北京電影(映画)学院や中央戯劇学院は入試の競争率が非常に高く、チベットのように専門分野の基礎的な教育を受けられない地域の出身者にとって合格は困難。しかも、漢語(いわゆる中国語)で受験しなければならないので、普通に本科に進学するのは難しく、私のように進修生(研究生)として学ぶ人が多いです。

ハンデ克服のため、天安門も見ずに映画を見た

ーー北京で学び始めた時、周りにいる学生は小さい頃から様々な映画に触れる機会のあった都市部出身の学生だったり、本科生だったりしたのですよね? スタート地点の違いに挫折を感じたことは?

北京に出て来た時点で漢語は問題なく使えたのですが、自分の考えを上手く口に出せず、引っ込み思案で交流下手な学生でした。

授業でタイトルの出る映画は見たことも聞いたこともないものばかり。巨匠と呼ばれる監督の作品ですら、それまで触れる機会がなかったのです。今みたいに、ネットで検索すればすぐ見られるような環境ではありませんでしたからね。北京に来てやっと窓が開いた感じで、毎日映画を最低でも2本は見ると自分にノルマを課し、ひたすら努力しました。1本見てはノートを取り、また見てはノートを取り・・・・・・の繰り返し。もう若くもなかったので、すべての時間を勉強に充てました。でも、先生が授業で取り上げる本は、他の学生は聞いたことがないような本でも、ほとんど全て読んでいましたね。

北京電影学院で学ぶために初めて北京に出て来た私は、当初、監督科で学んでいたペマツェテンと大学の敷地内でルームシェアをして暮らしていました。1つの部屋を借りて、ずっと映画を見ていた。学んでいた2年間、大学をほとんど離れず、天安門すら見たことがなかったです。

若手映画監督を取り巻く環境は厳しい

ーーチベット文化圏の映画が注目され始めたことで、資金集めが楽になるなど、映画制作の環境に変化はありましたか?

ペマツェテンらにはある程度決まった出資元があると思いますが、若い人が映画を撮る環境は厳しいでしょうね。チベットに限らず中国全体で共通の問題ですが、コストの回収が見込めない映画には投資してもらえません。アート系の作品はなおさらです。

ーー近年、何度か上海国際電影節(映画祭)に参加しているのですが、チベットの作品に力を入れて紹介しているような印象を受けました。政府の少数民族政策と何か関係があるのでしょうか?

全く関係ありません。よく「チベットの映画人は政府の保護を受けているのか?」と言われるのですが、映画そのものの質の高さや芸術性が評価されているのだと信じています。国が少数民族を保護しなければいけないという考えもありません。私はよく冗談で「覚えておけ。私の映画は国のお金を一銭も使ってない」と言うのですが、与えられようとしたことはあっても、受け取りませんでした。もらってしまえば、自由が失われる。

芸術は政治に絡め取られてはいけません。純粋に、芸術は芸術です。私は政治的、宗教的な議論には興味がありません。ただ映画でシンプルに物語を語っているだけです。


ソンタルジャ
Profile
1973年5月29日生まれ。チベット東北部アムド地方、青海省海南チベット族自治州の同徳県に生まれる。幼い頃より、教師であった父からチベット仏教画を教えられ、美術の才能を開花。青海師範大学の美術科を卒業後、小学校の美術教師や美術館のキュレーターとして働く。北京電影学院の撮影科で学び、ペマツェテン作品などの美術監督や撮影監督として活動を始める。2011年に発表した初監督作『陽に灼けた道』は、バンクーバー国際映画祭、ロンドン映画祭をはじめ世界中で高く評価された。長編第2作の『草原の河』はベルリン国際映画祭で上映され、上海国際映画祭で史上最年少の女優賞を獲得。日本で初めて商業公開されたチベット人監督となり注目を集めた。


2020年2月8日(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー
©GARUDA FILM

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