【FILMeX】気球(コンペティション)
この作品を観終わって考えていたことは、これはある種『灰とダイヤモンド』に通じる作品だなということだった。もちろん映画のタイプはまるで異なるものではある。かつてこの作品についてアンジェイ・ワイダ監督が語っていたことを思い出したのである。『灰とダイヤモンド』は検閲官がとても気に入っていた。最後のマチェクが死んでいくシーンが素晴らしいというんだ。体制側に抵抗した者の末路を示していて、それが惨めであればあるほど、それがいかに愚かで無駄なことかを示していて、教育的に素晴らしいと。大体そのようなことだった。当時の普通の観客たちは、マチェクの最期に涙し、いかに体制側が無慈悲なものかと憤って観ていたはずである。立場の違いで、作品の意図をまったく逆に解することが可能だということを知ってとても驚いた。『気球』もまた、それと同じような解釈が成り立ちうる作品なのではないかという気がするのである。
中国では一人っ子政策は廃止されたものの、産児制限はまだ有効で、3人目の子供からは罰金が科せられることになっている。これは地方によって事情を考慮されていて、映画の舞台チベットでは4人目から罰金ということになっているようだ。おじいさんと、夫婦、子供が3人の家族。その中でおじいさんが途中で亡くなってしまうのだが、そんな時妻が妊娠し、しかもチベット僧からその子が亡くなったおじいさんの生まれ変わりであると告げられる。そもそも4人も子供は育てられないと感じている妻と、自分の父親の生まれ変わりを降ろすなんてことはとても考えられない夫との間で、すれ違いが生じる。そこに法的な問題も降りかかってくるのである。
それでは為政者側からこの作品を解釈してみよう。“コンドームを配っているのに、きちんと使わず、子供を産もうとする人は愚かである。ましてや占いや迷信を信じて、子供を産もうとするなど愚の骨頂である。この作品では、優秀な医者が都市部よりチベットに派遣されていて、彼らの親切によって、この女性は救われる。女性が迷っている時、きちんとアドバイスし、彼女の立場に立って医者たちが働いているのに比べ、夫の何と愚かなことであろう。迷信に捉われ、妻のことなど何も考えていやしない。それどころかこの男は、法まで破ろうとしているのだ。いい大人がつまらないことで取っ組みあいの喧嘩をしたり、酔いつぶれるまで飲み明かしたりする。所詮野蛮なチベットの男たちなんてこの程度なのである。そうしたことの愚かさがよく表現されていて、しかも妻は正しい選択をする。この作品はそうした意味では教育的に意義あるものだと言えよう。”
実際には、この作品の価値はそんなところにはない。チベットの伝統と女性の権利と国家権力のぶつかり合いこそがこの作品のテーマである。恋愛も自由にできずに僧にならざるを得なかった女性と、子供を産むか産まないかの選択を自分でできない女性は、チベットの伝統に縛られている。しかしそのチベットの文化は、中国中央の政策に縛られている。そんな価値観の弱者、強者の関係がこの物語の日常を支配しているのである。街に出ると、唐からチベットに嫁いできた文成公主の像が、彼らを見下ろしている。文成公主自体は唐とチベットの和親に努めた人として、チベットでは今も崇拝されている。文成公主を観音菩薩の涙から生まれた多羅菩薩の化身とする見方さえあるそうである。しかしながら、ここにある像は古くから伝わるものではなく、新しく造られたものである。これも現在の中国とチベットの関係を象徴しているようにも思える。