見えない目撃者 

見えていないのは誰か? 

警察官として将来を嘱望されながらも事故で視力と弟を失ってしまった浜中なつめ(吉岡里帆)。依願退職し人生に絶望を感じながら過ごす日々を送っていた。ある晩なつめは車の接触事故に遭遇。車の中から助けてと叫ぶと少女の声を聞き警察に証言するが取り合ってもらえない。やがてなつめは、同じ事故を目撃した高校生を探し出し、自らの力で少女の行方を探そうと動き出す。

※核心部分に触れていますので、これから映画を観る方はご注意ください

本作は韓国映画『ブラインド』(11)のリメイクだか、元から日本を舞台に作られた映画のように、この国の暗部にぐっと迫った作品に仕上がっていると思う。主役を演じた吉岡里帆は本作が間違いなく代表作となるだろう。『見えない目撃者』は文字通り主人公なつめを指しているのだが、観進めていくと、「見えていないのは一体誰なのか?」を悉く観客に突き付けてくるつくりになっている。

見えていない人間とは誰か。第一に、接触事故に居合わせた高校生の春馬(高杉真宙)だ。彼は目が見えているにかかわらず、車に押し込められた女子高生に気付かなかった。見えなかったからいなかったはずだと思い込み、別の可能性、他の視点を考えるに至らなかった。「見えていても見えていない」ことがある。

第二に、事件を担当した警官の木村(田口トモロヲ)と吉野(大倉孝二)。彼らは目撃者であるなつめが視覚障がい者であること、精神科通院中であることなどからまともに取り合わなかった。頭から差別的に見ていたわけではない。しかし、もう一人の目撃者である春馬-健常者-の意見に着地させ、なつめの証言には「目をつぶろう」とした。彼らが態度を変えたのは、なつめが自分と同業、元警官だと知ってからだ。

第三に、不都合な事実から「目をそらそう」とする周囲の人間の無関心である。家出や失踪した自分の子どもの捜索届も出さない親たち。三者面談をすっぽかす春馬の親もこの部類かもしれない。さらには、人が一人消えたとしても気づかない、何も思わない、自分とは関係がないと切り捨てる社会の無関心さだ。春馬の担任教師も言う。道を外れていった人間に構ってなどいられないのだ。いまや我々も含めた社会全体がそういう風潮にある。自己責任という言葉を、大人だけではなく、親や環境を選べない子どもにまで突き付ける過酷な現実。

これは、なつめが地下鉄や駅構内で「犯人」の執拗な追跡を受けるシーンにもつながっている気がする。逃げ惑うなつめに対して観客は思う、周囲の人に助けを求めろと。彼女にスマホで指示を出す春馬も実際にそう言っている。しかし、地下鉄も駅構内も不思議なほど人がいない。なぜか。翻れば、なつめの世界には誰もいないということだ。見知らぬ道、見知らぬ駅、見知らぬ地下鉄。目の見えない彼女にとってみれば反応してくれる人がいなれば(声を掛けられなかったりぶつかったりしなければ)誰もいないと同じなのである。人の無関心とは、無視とは、つまりそういうことだ。実際、駅構内の追跡劇で心強いと思ったのは盲導犬のパルと一直線に並ぶ点字ブロックである。

そして、そこに目を付けたのが事件の犯人だ。姿を消したとしても誰も騒ぎ出さないような女子高生を狙う。親のネグレクト、社会の無関心が彼女たちの存在を無いものにした。それは、犯人もまた誰にも関心を寄せられずに生きてきたからなのかもしれない。犯人の殺人の目的は個人への関心や怨恨といったものではなく、儀式のために、ただ記号として必要だった。それだけのことだ。

本当に見えていないのは誰なのか。映画を観ているこちら側も社会に絶望しかけようとするとき、なつめは言い放つ。「私はもう諦めない」。こんな自分でも、世の中でも。人は見たいものしか見ようとしない。もちろんそのままでも―不都合な事実に目をつぶって―生きてはいける。しかし見ようとする意識があれば、変わることができるはずなのだ。なつめのように。春馬のように。さあ、あなたはどっちを選ぶ……?

決着の仕方は異なるが、本作は映画『セブン』(95)のラストを彷彿とさせる。
この世界はクソだ。だからこそ闘う価値がある。


(C) 2019「見えない目撃者」フィルムパートナーズ (C) MoonWatcher and N.E.W.

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