ピータールー マンチェスターの悲劇

名匠の憂慮~200年前の愚行が現代と地続きであること

マイク・リー監督のこれまでの作品は人物に焦点を当てたものが多く、ケン・ローチ監督のように現状に怒り、強い社会的メッセージを発することは、あまりなかったように思う。ところが彼の最新作はどうも様相が違う。1819年8月16日に英国マンチェスターで、貧困問題の改善や選挙法改正などを訴える平和的デモを行っていた民衆への為政者側の愚行、いわゆる「ピータールーの虐殺」として知られる事件の映画化に挑んだもの。リー監督にとって初の史実ものの作品であり、ここにきて英国の名匠の従来とは異なる、明確な強い意志を感じることができる。「世界はこのままで良いのか?」と。

映画の前半は、人々の困窮する日常や当局の横暴を淡々と描いている。ナポレオン戦争後の英国。戦争に勝ったのは良いが、民衆は貧困にあえぐ一方で、王族や為政者は圧政の限りを尽くす。これはおかしいと思ったのは民衆であり、たびたび集会を開き、選挙権の拡大を訴えるようになる。対する当局はフランス革命の二の舞はご免だと、彼らの集結に神経を尖らせている。名の知れた活動家の動向に目を光らせ、ちょっと発言したら罪をでっち上げて逮捕を目論む。何と姑息な・・・とはらわたが煮えくり返る思いだ。しかし何より恐ろしいのは、これが「200年前は怖かったね」と過去の出来事と断絶できないこと。同様のことは今も行われているからだ。現在絶賛上映中の『新聞記者』でも反政府デモを行った一般人が内調から目を付けられるシーンがあるが、それと全く同じ。権力者は民衆を無知だとバカにしつつも、何よりも民衆を恐れているという構図は、古今東西変わりはない。

また、クライマックスの武装した政府軍と騎馬隊がサーベルや銃を振りかざし6万人の無防備な群衆に突っ込んでいく様子は、天安門事件や現在の香港のデモとも重なり合う。荒々しく残虐で地獄絵のような場面を、リー監督はこれでもかとばかりに臨場感をもって丹念に描く。権力を持つ者と持たざる者の格差、罪なき者が不幸に陥る不条理、弱者を搾取する為政者・・・。現在と地続きのテーマに、リー監督の現在の混迷する世界への憂慮がひしひしと伝わってくる。

先月の参議院選挙の投票率が、5割に満たなかったことに驚きとともに嘆かわしく思った。今の日本では18歳以上の男女に選挙権があるが、本作を見ても分かるように、昔はそうではなかった。一部の特権階級の男性しか選挙権はなく、それからすべての男性に、そしてすべての女性にと権利が拡大されていったもの。現在に至るには多くの先人たちの努力や犠牲があったからこそ。200年前の人たちが欲しくてたまらなかったものを我々は難なく享受しているのに、どうしてその貴重な権利をいとも簡単に放棄してしまうのか。本作を見た後だと、なおさらそんなもどかしい思いにも捉われる。

楽しい映画でない。ビッグスターが出演しているわけではない。しかし、世界が歪んだ今だからこそ撮る価値、見る価値のある映画である。


8月9日(金)TOHOシネマズ シャンテほか全国順次公開
第75回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門Human Rights Film Network Award受賞
© Amazon Content Services LLC, Film4 a division of Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2018

トラックバック URL(管理者の承認後に表示します)