ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画のゆくえ

権力者の驕りと、芸術家の矜恃

ヒトラーが美術アカデミーの試験に二度も落ちたのはよく知られている話だ。もし彼が合格して画家にでもなっていたら、歴史は確実に変わっていただろう。しかし彼は政治家になり、芸術に関する別の野望を抱いた。故郷近くのリンツに「総統美術館」を建設することだ。ナチスは次々に美術品を略奪、その総数は60万点にのぼると言われている。私はそれをヒトラーの個人的な芸術への執着だと思っていた。だが、本作を観て、そればかりではないと言うことに気付いた。ナチスの恐るべき目的、そのための巧妙な戦略。ナチスの蛮行についてはそれこそ数々の書籍やドキュメンタリー、映画が作られているが、今まで断片的に見えていたものが自分の中で一つの線に繋がったと感じた。

1937年にナチス主導で行われた2つの展覧会―大ドイツ芸術展と退廃芸術展が象徴するものは、ナチスによる「芸術の選別」であった。前者は牧歌的な風景や家族と母性を主題としたものが取り上げられ、「健康で美しい金髪の子どもたち」を総統に捧げよ、というメッセージが込められていたと言う。後者は、印象派やキュビズムといった当時新しいとされていた美術を退廃したものと評した展覧会だ。しかも、展示は滅茶苦茶で額装せずに設置したり絵画の脇に批評コメントを書くなど、作品を貶めるためのキュレーションがなされた。そしてこの二極化は、ナチスが行ったホロコーストといわゆるレーベンスボルン計画による「血の選別」と同じではないかと言う印象を強く受けた。レーベンスボルン―「生命の泉」と言う意味―の名を掲げたこの計画は、「アーリア人」の人口増加と純潔性の強化を目的としたもので、ナチスのSSと選ばれた白人女性の間に子どもを産ませ育てるための施設が作られていた。芸術の選別、血の選別によってナチスが作り上げようとしていた帝国。現代に生きる我々からすれば、ゾッとするばかりである。

美術品を収集するためにナチスはどのような手段を取ったのか。裕福なユダヤ人たちから二束三文で買い取ったのである。渡航ビザを手にするためにやむなく手放した人もいれば、最後まで拒否し自身は収容所に送られ、財産を接収された人もいる。恐ろしいのは、無理矢理に近い形にせよ、法に則ったやり方だったということだ。更にナチスは侵攻した国々からも美術品を接収していく。特にヒトラーや元帥ゲーリングは自身のコレクションのため競うように作品を集めた。本作にはナチスにフェルメールの贋作を掴ませた男・メーヘレンも登場するが、美術界に受け入れられなかったがゆえに贋作画家となったメーヘレンと政治家になったヒトラー、両者の人生を考えるとなんとも皮肉な話だ。

さて、これらの作品はその後どうなったのか。戦局が悪くなると、ナチスは略奪品を「疎開」させた。戦時下における美術品の奪還を使命とした米国のモニュメンツ・メンの活躍は映画『ミケランジェロ・プロジェクト』(2014)でも描かれている。しかし、奪還されても本来の所有者のもとに戻される作品ばかりではない。そもそも「真の所有者か」と言う証明が難しく、例えそれが明らかになったとして本人や家族らが要求しても、返還には様々な困難が伴う。その一つの例が、映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』(2015)で示されている。一方、いまだ行方不明の作品も10万点あるとされ、最近明らかになった「グルリット事件」のように、誰かが隠し持ちその来歴ゆえに表に出せないケースも多々あるに違いない。

芸術作品の制作・収集・展示における政治的な側面は、大きく言えば権力者の権威付けと、民衆を扇動するプロパガンダが挙げられるだろう。時の権力者が度々その方法を用いたように、ナチスもまたそれを大々的に行った。では、芸術作品は、芸術家は、ただただ権力者に翻弄され―やられっぱなしなのだろうか。本作の最後の最後に紹介されるパブロ・ピカソの言葉に、ぜひ注目してほしい。権力者の驕りと、芸術家の矜恃。同時に、芸術作品を鑑賞する我々にも、制作依頼者の意図、芸術家の意図、展示者の意図を読み取る姿勢、そして読み取れる力が求められている。



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4月19日(金) ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館他全国公開

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