ソローキンの見た桜

ソローキンの見た桜は、かくも美しかった

 日露戦争時代、日本には多くのロシア兵捕虜収容所が存在した。その中でもロシア兵に最も知名度が高かったのが、愛媛県松山市にあった収容所だった。「マツヤマ」はいつしか彼らにとって収容所を意味する言葉になったほどである。日本で初めて設けられた収容所ということもある。が、それだけではない。なぜそれほどまでに有名になったのかは、映画を観ると、わかるような気がする。ロシア兵捕虜たちが、町を散歩し、温泉に浸かり、芝居小屋にまで出入りしている様子が、ごく当たり前のように描写されているからだ。

 第二次大戦中の日本の捕虜への虐待を思い起こすと、信じがたいような大らかさである。泰緬鉄道の建設現場やバターン死の行進など、日本軍の捕虜に対する非人道的な扱いは、何度も映画やドキュメンタリーで見てきているし、いつの時代もそういうものだと思ってきた。この時代の日本には、捕虜になることは恥ずべきものであり、降伏した兵士たちを軽蔑する考えがあったからである。しかし第二次大戦から遡ること30数年あまり前の松山は違っていた。

 映画の冒頭、ロシア兵たちの軍刀を接収する場面がある。抵抗されたため、日本軍の下士官が力づくでそれを取り上げようとするが、収容所長(イッセー尾形)が一触即発の事態を綺麗に治める。軍人として刀を手放すことがどれだけ心苦しいことか、その気持ちがとてもよくわかると説き、あくまでもロシア人将校たちに礼を尽くすのである。その気持ちが通じたのだろう。彼らは素直に軍刀を手放す。この場面からは、捕虜を軽蔑するという意識は感じられない。ひとつには、国策ということもあるだろう。街の人たちが日章旗を手に持ち、捕虜たちが上陸するのを歓迎する場面にその匂いがする。実際、1899年に採択されたハーグ条約の俘虜(=捕虜)に関する規定「俘虜は人道をもって取り扱うこと」、これに忠実に従うことで、日本が世界から一流国として認められるという考えが、当時の政府にはあったのである。

 とはいえ、現実に戦争をしている国の人間同士である。捕虜を迎える一般の民衆が、最初から心からの歓迎をしていたとは思えない。その複雑な気持ちを映画では、看護師ゆい(阿部純子)とロシア人将校ソローキン(ロデオン・ガリュチェンコ)のふたりのロマンスに託している。おそらく、ゆいが捕虜たちの看護師になった動機は、傷ついて帰ってきた兄、戦死した弟を前に、自分も国の役に立たなくてはということだったのではないかと想像する。国のためというよりは、自分だけが何もしないことに耐えられなかったのだろう。

 そういう思いの強い彼女だけに、偶然とはいえ、弟を戦死させた船に乗っていた将校ソローキンを看病することになり、目的を見失い苦悩するのである。なぜ弟は死んでしまったのに、この男は生きて傷つきこの地にいるのか。なぜ私は弟の仇とも言える男を自分が助けようとしているのか。なぜ私は親の反対を押し切ってまで看護師をやっているのか。追い詰められた彼女は、看護師としてやってはならないところに足を踏み入れようとする。そこで初めて自分のしていることの意味に気が付くのである。一方ソローキンもまた、ゆいがなぜいつも思い詰めたような顔をしているのか疑問を抱き続け、気にかけている。「なぜ」という疑問は、自分自身を見つめることでもあり、さらには相手を理解することに繋がっていくのである。それが、かえって2人を近づけていったとも言える。この作品には「なぜ」という疑問符が通奏低音で流れているのだ。

 そもそもこの物語は、タイトル『ソローキンの見た桜』が示すように、桜の咲く季節に日本にいなかったはずの彼が、なぜ「日本の桜は美しかった」と書き残していたのか、ジャーナリスト(斎藤工)がそれを探り、記事にしようというというところから出発している。彼らの残した日記や手紙が見つかり、それを探っていくことで、当時の松山の人たちや、ロシア兵捕虜たちの様子が徐々に明らかになっていく。現代の人たちが抱いた「なぜ」からの出発、すなわち名もない個人のエピソードを掘り起こし過去の歴史を明らかにしていくことは、当時の人の気持ちに寄り添うことでもある。100年以上も前の様子が、現実の風景のようにスクリーンの前の私たちの眼前に現れる。

 この作品の物語自体はフィクションだが、当時の記録にあたり細かい事実を拾い上げエピソードに盛り込み (捕虜が所望したコニャックをこんにゃくと聞き違え、大量に届けられるなど)、また収容所をはじめ、当時の様子を再現することに腐心しており、それが物語に真実味を与えている。私たちはそのことで多くのことが学べるはずだ。そのことで憎しみは消え、相手への理解が生まれてくる。一般の人たちにとって、戦争はお互いに不幸な出来事であって、どちらか一方だけが憎んだり憎まれたりするものではないことを。(もちろん権力者からの一方的な迫害は論外である)それゆえに、100年以上も前に生きた2人のロマンスが、現代のロシアと日本を結ぶ果実になっていくこの映画のラストは、とても素敵である。ソローキンの見た桜は、かくも美しかったのだ。



(C)2019「ソローキンの見た桜」製作委員会
※2019年3月16日(土)愛媛県先行公開
2019年3月22日(金)角川シネマ有楽町ほか全国公開

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