菊とギロチン

隣の奴は敵じゃないぞ、共闘しろ!

メイン大正時代は時代の曲がり角である。この時代東京は現代的な都市になっていく。農村から都市に人が流出し、貧しい工場労働者の住む地域が形成される。その一方日本橋三越では、バーゲンセールが開催される。貧富の格差、地方と都市の格差が広がり、人々に不満がたまっていく。ストやデモが盛んになり、それらは大正デモクラシーという言葉で、一括りされた。

平塚らいてう、伊藤野枝ら女性解放運動家が活躍したのもこの時代。のちに伊藤野枝は、本作にも登場する大杉栄と結婚し子供をもうけるが、大正12年関東大震災のどさくさで、一家そろって甘粕正彦らに拉致され殺害された。同じ年、普通選挙法が成立する。しかし成立したからといって、世の中が変わることはなく、人々に大きな失望をもたらしただけであった。むしろ普通選挙法とセットで国会に提出されていた治安維持法のほうが、世の中に重く圧し掛かってくるのである。皮肉なことに、大正デモクラシーの終わりは、普通選挙法成立の時から始まったのだ。

 映画は、こうした時代背景をバックに、関東大震災の発生から幕を開ける。東京から少し離れた田舎町、それでも大地は揺れ、樹々が不気味にザワザワと騒ぐ。まるでこれからやってくる不安な時代を予見するかのように。国の中心で起こっている不穏な動きが波紋となって地方へと広がるように…。

大正デモクラシーの終わりの始まりが震災の年だったとすると、大正11年に結成されたギロチン社は、時代に少し遅れていたといえるだろう。彼らのアジトが、波紋の先にある田舎町であったことは象徴的である。また大正時代は、都市に注目が集まった時代でもある。都会の視点で時代を描いた小説、エッセイは数も多いが、田舎の視点で描いた作品は、数が少ない。それ故に作品のこの視点は興味深い。

ギロチン社の中心人物、中濱鐵は満州で、誰もが平等な社会を作るのが夢である。しかし貧しい漁村で生まれ育ち、高等教育を受けなかった彼の思想は、大杉栄の受け売りに過ぎない。行動もこの前後に起こった事件、安田財閥の安田善次郎暗殺事件や、虎の門の皇太子暗殺未遂事件をなぞったものだ。彼が書いている詩も、当時流行していたプロレタリア文学を気取ったものなのである。貧しさを知っているだけに、そこから脱けだすには社会を変えるしかないという情熱だけは本物だが、はなはだいい加減である。

彼と共に行動する古田大二郎は、都会育ちで早稲田大学に入ったインテリである。農民や労働者たちに寄り添い、運動を起こそうとしたがうまくいかず、くすぶっていた時に中濱鐵と出会う。映画では、理想のために何かをしようとは思っているが、現実には女1人も助けることが出来ない軟弱者という描かれ方をしている。彼らの共通点は、地に足がついていないということだ。

 一方、貧しい農村で結婚するも家出し、女相撲の世界に入った花菊の願いは、ただ強くなりたいだけである。強くなれば、夫の暴力にもひるむこともなく、自由が得られると思っていたからである。女相撲の力士たちは、色々な事情を抱えてはいるが、それぞれ男に頼らず女が1人自立して生きていこうとしている点は共通している。己の体を鍛え上げ、男なんかに負けていられないという気概がある。単純な発想でそこに理屈はないが、この当時の田舎では精いっぱいの抵抗なのではなかろうか。女性解放運動とも一脈通じるところがあるようにも思える。

ギロチン社と女相撲、この出会いはフィクションではあるが、とてもよくできている。そこに必然性が感じられるのだ。地に足が付かない男たちと、生活力のある逞しい女たち。それぞれにお互いを補い合うような関係性がある。また、彼らはそれぞれ平等な社会実現、封建社会からの女性の解放を夢見ている。それは、大杉栄と伊藤野枝の夢や理想とも呼応している。相性がいいのだ。いわば都会の表舞台で活躍していた大杉栄と伊藤野枝、それに対して田舎町で出会った彼ら、歴史の表舞台には出てこないギロチン社と、相撲史では無視されてきた女相撲の面々は、コインの裏と表なのである。

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