祝福~オラとニコデムの家~

現実がフィクションになる

オラの見せるさまざまな顔の、どれが素の彼女の姿なのだろうか。家での彼女は、大人びた表情をしている。イライラしていることのほうが多い。福祉士に家族について尋ねられて「大丈夫、順調です」と答える彼女の表情も、どこかこわばっていて頑な感じがする。ところが、学校の仲間とのパーティーや友達と一緒にいる時に見せる顔は、年齢相応に見える。特にパーティーでのはじけ方は明るく開放的で、まるで別人である。

もっと言えば、彼女は気丈な自分というものを、普段以上に(観客が知りえない、カメラが回っていない時のオラ)自己演出していたのではなかったのか。実際、聖体式などカメラが遠くにあるシーンでは、意外に子供っぽい表情をしていたりするのである。これらは、1人の人間の中のフィクション性というものを感じさせてくれる。当たり前といえば、当たり前だが、置かれた立場によって自然に振る舞い方が違ってくるのである。

普通はカメラが近くで回るなどということは、ありえないような平凡な人たちである。自分たちが映画の主人公になるという特別な出来事があったのだから、再び家族がひとつにまとまるという奇跡も生まれる。そんな運命をオラが感じていたとしても、不思議ではない。アンナ・ザメツカ監督は、彼女が何を夢見て何を望んでいるか、じっくり話を聞いたうえで撮影に臨んだという。オラの心の中では、カメラが回っていることと夢が現実になることが、セットになっていたことだろう。彼女の気持ちに寄り添うことで、監督にはこの映画のストーリーが見えてきたはずだ。そういう意味では、この映画はドキュメンタリーでありながら、最初からフィクション性を持っていたともいえる。

この作品を例えて「リアリスティックな“ヘンゼルとグレーテル”である」と、アンナ・ザメツカ監督は言っているが、その言葉どおりカメラが回り始める瞬間、オラとニコデムは紛れもなく特別な日常に放り込まれるのである。確かにそれは2人にとって、ヘンゼルとグレーテルの森の中に入ったのと同じ意味を持つことなのだ。現実がフィクションになる…そのことによってこの作品は、『ヘンゼルとグレーテル』が世界中で読み継がれているのと同じように、普遍性を獲得したのである。

※山形国際ドキュメンタリー映画祭2017ロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)
※6月23日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開
©HBO Europe s.r.o., Wajda Studio Sp. z o.o, Otter Films Wazelkie prawa zastrzeżone. 2016

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