ガチ星
アスリートの職業人生はとても短い。むしろその後の人生のほうが長い。その後もコーチや監督として残れる人はほんの一握りである。もちろん職業を変えても、きちんとやっていける人たちのほうが数的には多いことだろう。けれども、その中には、どん底に落ちていく人たちが必ずいる。ほんの一瞬でも輝いた人だからこそ、その後の転落はとても悲しい。
大相撲界では横綱の暴行事件が記憶に新しいが、昭和12年にもビール瓶殴打事件というものがあった。巡業先の酒席で、元関脇新海幸蔵が元関脇綾川五郎次にイチャモンをつけビール瓶で殴り負傷させ、強制引退となった事件である。その後の新海の人生が悲惨である。手を出した事業にすべて失敗、晩年はアパートの小さな部屋に住み、生活保護を受けるほどまでに落ちぶれてしまう。そのうえタバコの火の不始末で家は全焼、焼死してしまうのである。喧嘩早かったので協会に残れなかったのがこの人の不幸。プライドばかりが高くて何をやってもうまくいかず、そのうち酒に溺れる。しかも酒癖が悪いときていたのだ。
この映画の主人公濱島浩司もまた、その類型にピタリとあてはまる。戦力外通告を受けた元プロ野球選手の彼は、酒やギャンブルに溺れ、選手時代を覚えている酔っ払いにからかわれて喧嘩、警察沙汰になり、当然の帰結として妻子とは別居状態となる。折角友人から仕事を貰っても、恩を仇で返すような行動を取ってしまう。
かつての栄光と現在の落差の大きさに納得できない彼は、さらに酒とタバコに溺れていく。パチンコ通いは、彼の自堕落な生活、彼の弱さを象徴している。負ければ負けたで、次こそは取り返すとまた店に入り同じ失敗を繰り返す。出れば出たで、大切な用事があることがわかっていても、途中で抜け出せずに約束を反故にする。そんな自分に言い訳をするが、そのことで却って自分に嫌気がさし自暴自棄に陥っていく。こうして時が経てば経つほど、心の闇は深くなっていくのである。
その流れを断ち切るため、濱島は競輪の世界に足を踏み入れるのだ。競輪学校は40歳以上でも入学できるということを耳にしたからである。この映画は、いわゆるスポコン映画といったものとは違っている。1枚、1枚玉ねぎを剥くかのように、主人公のぜい肉を落としていくような作品である。ぜい肉とは、余計なプライドや忘れられない贅沢な暮らしの味、硬直した価値観、落ちぶれたことに対する自己嫌悪の気持ちなど。時に重苦しくさえある。
それは競輪という競技のストイックさからくるところもあるだろう。練習はひたすら自転車を漕ぐことだけに終始する。室内ではローラー台に固定された自転車に乗るので、前に進むことさえない。自ずと闘う相手は自分自身ということになってくる。そこに人生が滲みだしてきてしまうのだ。屋外に出れば、見上げるような坂が前に立ちはだかり、主人公が乗り越えなければならないハードルの高さが実感させられる。挫折する時には、その場に倒れることしか残っていないこの競技は、崖淵に追い詰められた主人公の人生に何とよく合っていることか。自分より20歳も若い生徒たちから疎まれ、冷ややかな視線を投げかけられる中で、大量の汗と涙を流し、反吐を吐く主人公の姿は、お世辞にも綺麗なものとは言えない。流された液体、それは彼にとって膿のようなものなのかもしれない。年齢を重ねた者が1から出直すということは、かくも格好悪く、壮絶なことなのである。
この作品では、練習シーンの本気度、レースシーンの迫力がその物語を支えている。映画初監督とはいいながら、江口カン監督は、東京五輪招致映像のクリエイティブディレクションを務めた人である。その感性と、自転車競技への深い理解、日本競輪選手会福岡支部の全面協力が、迫力のある映像を生み出している。主人公を演じた安部賢一の迫力も忘れてはならないであろう。坊主頭にすると、どこか元高校球児の雰囲気が漂う彼は、実際に甲子園を目指した球児だったという。肩を壊して挫折した彼は、競輪選手を目指すがそれも挫折、その後上京して役者を目指すが、それも鳴かず飛ばずという人生を送ってきており、この映画自体が、彼の崖淵人生の最後の賭けだったのである。それゆえに、映画の主人公とは違い未だ栄光さえ味わっていない、けれどもそれと似たような境遇を抱えた彼の必死な思いが、画面から滲みだしてくるのだ。そのガチさが、画面全体の空気を確実に支配しており、この映画に異様な迫力をもたらしている。
☆2018年4月7日福岡中洲大洋、5月26日新宿K’s cinemaほか全国順次公開
配給:株式会社マグネタイズ
配給協力:太秦株式会社