『ルージュの手紙』マルタン・プロヴォ監督
――監督はどうして女性の内面を描くのに長けていらっしゃるのでしょうか?
MP:私は母、祖母、姉妹に囲まれて育ちましたし、誕生時には助産婦に救われました。そういう環境に影響されているのかもしれません。またもう一つ言えることは、20世紀に入って女性の地位に変革がありました。女性がこれだけ変わったのだから、男性も女性に合わせていかなければならないのでは?男性は女性の完璧な代わりにはなれないけれど、今は男性が女性に合わせていく時代なのだと思っています。私が女性を描くことによって、その一助になることを願っています。
――本作で特に伝えたいこととは何でしょうか?
MP:真面目なクレールと大胆なベアトリス、同時に、新たな命を出迎える助産婦のクレールと重い病気にかかっているベアトリス、つまり生と死の対比を描こうと思いました。そして両極端な人間同士のストーリーを描いてみたかったのです。それから昔のフランスでは、助産婦が赤ん坊を取り上げるだけではなく、看取りの仕事を行っていたこともこの物語にふさわしいエッセンスだと思いました。
――助産婦が看取りの仕事をしていたのが大変興味深いです。また、助産師の置かれている立場がよく描写されていたと思います。大きな病院では出産が技術化されている一方で、クレールが働く産科医院では収益があわず閉鎖に追い込まれるなど、そのような状況に監督は批判的にも思えましたし、冒頭も助産婦の方へのリスペクトの言葉を捧げられていたし、助産婦への思い入れも感じました。
MP:助産婦による看取りはもうほとんどなくなっていますね。フランスでは産院の採算性が優先されて出産に対する敬意が失われているように感じています。先ほどもお話したように、私は生まれた直後に助産婦に助けられた経験があります。出産は大変なことで、周りの支援や強い理解が必要だと思います。
――本作では特に出産シーンや賭博シーンにはリアルさを求めたと伺いましたが。
MP:赤ちゃんがこの世で最初に対面するのはまず助産婦です。そんな臨場感を出したくて、フロさんには実際の出産に立ち会ってもらって撮影しています。ベアトリスのギャンブルのシーンに出てくる人たちは本当の賭博師で警察に紹介してもらいました。彼らはドヌーヴさんと一緒に映画に出ることができて、とても喜んでいました。実際は怖い人たちです(笑)。
――プロヴォ監督はご自身の作品の脚本も書かれていますが、監督と脚本を兼任されることのこだわりはあるのでしょうか?
MP:基本的にものを書くのが好きなんです。これまでも他の人の脚本を監督してほしいというオファーがありましたが、あまり乗り気ではなく、自分の脚本を監督しています。脚本を書いていると、自然と俳優の声が聞こえてくるのですが、その声を聞きながら執筆しています。
――脚本を書くときに俳優の声が聞こえるということですが、彼らの演技を想像するというよりは声を感じて書かれるのですか?
MP:そうですね。脚本だけではまだ映画にはなっていなくて、まだ静止物だと思うんです。だから脚本の段階では、彼らの演技というよりは声が頼りです。映画とは脚本ができてから、視覚的にどう膨らませていくかが重要だと思います。それは私や俳優だけではなく技術、美術、衣装のスタッフなど、彼らの思いを加味して映画になるものだと思っています。
――たとえば現在、次の作品を執筆中で俳優のどなたかの声が聞こえる・・・ということはあるのですか?
MP:実は次回作の脚本はできています。フランスの女優2名を起用しますが(また女性の物語ですね(笑))、日本で撮影予定です。昨日、プロデューサーにも会ってきましたよ。
<プロフィール>
マルタン・プロヴォ Martin Provost
1957年生まれ。フランス・ブレスト出身。フランスに実在した素朴派の女性画家セラフィーヌ・ルイの生涯を描いた『セラフィーヌの庭』(08)が批評家から絶賛され、興行的にも成功を収める。同作で作品賞、主演女優賞(ヨランド・モロー)を含むセザール賞7部門を受賞。プロヴォ自身も最優秀監督賞にノミネートされ、脚本賞を受賞した。『ヴィオレット ある作家の肖像』(13)でも監督・脚本を務め、女性として初めて自らの生と性を赤裸々に書いた実在の作家ヴィオレットの実像を、彼女の才能を見出し支え続けたボーヴォワールとの絆を軸に描き、優れた脚本と大胆な構成、みずみずしい自然描写などが高く評価された。
© CURIOSA FILMS – VERSUS PRODUCTION – France 3 CINEMA
12月9日、シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー