残像

全体主義~万物はすべて色彩を失ったかのように~

Zanzou_sub2 「すべての芸術は社会に役立つものでなければならない」ポーランド政府のこうした要求により、主人公は次第に追い詰められていく。大学教授の職も追われ、造形芸術科協会からも除名され、職業に就くことさえできなくなってしまう。無職では配給切符ももらえないため、生活も困窮し病にも侵されていく。彼の美術を集めた美術館の特設コーナーの豊かな色彩に彩られた壁は、真っ白なペンキで塗りつぶされていく。その味気無さ。彼の絵画の豊かな色彩には、多様性の中にある秩序が表現されており、それは色々な個性の人たちが、色とりどりの洋服を着、異なる価値観や意見をもって活動している社会の様子と呼応している。一方為政者たちにとって秩序は、自分たちが作るものであり、多様性の中には存在しないものである。そうした点で彼の絵画は、全体主義とは相反するものと言える。彼の自分の世界を取り戻そうとする闘いは、パーソナルなものであるはずなのに、そのまま社会に人間性を取り戻す闘いにも繋がってくる所以である。

作品のタイトルとなった残像とは、1948年から49年にかけてストゥシェミンスキが発表した「光の残像」シリーズに由来するものだという。「残像はものを見たときに残る色のことだ。人は認識したものしか見ていない」これは映画の中で語られる彼の視覚理念の一説だが、この作品では、それ以上の意味が与えられている。1度美しい風景や絵画を見れば、例え薄れゆく記憶の中でも、その1番鮮烈な部分が瞼の奥に残り続けるように、例え、人々から思想を奪おうとも、彼らの瞼にはそれが残り続ける。そしてそれは人々の心の中で信念となって静かに燃えつづけ、為政者が奪おうにも奪えないものである。それと同時に逆の意味では、1度苦難を体験した人間にとっては、それが残像として残りつづけ、危機に対しては、敏感に身体が反応してしまうものなのである。と、いうことだ。

Zanzou_sub3これは、まさにアンジェイ・ワイダ監督自身が体験してきたことそのものである。美術を志していた彼は、この物語の時代、まさにストゥシェミンスキが教鞭を取る大学に在学し、身近でその有様を見聞きしていた。美術では何も表現できないと悟った彼は、映画へと転向し、政府への幾多の抵抗的な作品を世に送り出していく。彼を突き動かしていたものは、戦前の幸せな時代の残像だったのかもしれない。やがてソ連の崩壊と共に、自由な時代がようやくポーランドにも訪れるが、EU混乱の中で今再び表現の自由に危機が迫りつつある。学生時代の鮮烈な記憶がいままた残像となって甦り、それを敏感に感じ取って作られたのが、本作なのではなかろうか。そう考えると、この作品のクライマックスに、彼の初期の作品『地下水道』『灰とダイヤモンド』の残像が感じ取れることは、決して偶然ではないのである。いわばこれは、アンジェイ・ワイダ監督の映画遺言。今、真摯に受け止めなければいけない作品である。

©2016 Akson Studio Sp. z o.o, Telewizja Polska S.A, EC 1 – Łódz Miasto Kultury, Narodowy Instytut Audiowizualny, Festiwal Filmowy Camerimage-Fundacja Tumult All Rights Reserved.
★6月10日(土)岩波ホールほか全国順次ロードショー

1 2

トラックバック URL(管理者の承認後に表示します)