【イスラーム映画祭2】マリアの息子

聖母マリアの慈愛、クルアーンの寛容と少年の純真

マリアの息子イランでは、児童青少年知育協会という団体があって、そこから数多くのすぐれた映画作品が製作されたこことがよく知られている。例えば、キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』ジャファール・パナヒ監督の『白い風船』マジド・マジディ監督の『運動靴と赤い金魚』などもその系譜にあたる作品である。『マリアの息子』もどこか懐かしいその時代のテイストを感じる作品である。それもそのはず、年代的にも『運動靴と赤い金魚』とほぼ同じ頃に作られている。

この作品は、先に挙げた監督たちの作品と比べると、確かに技巧的にはオーソドックスなものかもしれない。しかし、その素朴さが逆に心に沁みる。村人たちも、神父さんも、教師も、誰ひとり悪い人というのが出てこない。児童向けということが多分に意識されていることもあって、善意満ちた作品である。キリスト教の洗礼式とイスラーム教の割礼の儀式を並列して見せるあたりには、教育的な意図を感じたりもするが、キリスト教の厳かさと、イスラーム教の祝祭感、どちらにも、非常に敬意が払われて描かれているのがわかり、とても気持ちがいい。ここに、イスラーム教の寛容の精神が感じられる。

この村では、キリスト教の教会(カトリック)とイスラーム教の寺院が、相対して存在している。かつては信者がたくさんいた教会も、今ではただひとり年老いた神父さんが、毎日儀式を黙々と執り行なっているだけである。ある日彼が事故で倒れた時、村人たちが料理を運んだりして、助けるのだが「若い時は随分お世話になったからなぁ」と言っていたのが印象に残る。彼がまだ元気だった頃、今よりももっと交流があったことを、この一言で偲ばせる。『神々と男たち』の修道院たち8人が、地元に融けこみながら生活していたように、彼らはこの村で助けあいながら生きてきたのだろう。

 主人公の少年は、勉強もよく出来、クルアーンの詠唱にも熱心に取り組んでいる。家の手伝いもよくやって、誠に賢い少年である。将来はお医者さんになりたいと思っている。というのも、自分の出産の時母が亡くなってしまい、彼は母の顔さえ知らないからである。他の人たちには、そんな思いをさせたくない。そんな風に考える優しい少年である。ある日、少年は教会に運ばれてきた聖母マリアの肖像を見て、目が釘付けになる。その優しい慈愛に満ちた顔に少年は母を見たのである。というのも少年の母の名前も、偶然だがマリアであったのだ。神父さんは少年に言う。「大抵の母親はマリア様に似たところがあるのだよ」と。そこから以前にもまして神父さんと少年の交流は深まっていく。父親はそのことを心配して、あまり教会には行かないようにと助言するが、少年はそんなことはお構いなしである。教会に行けば母に会えるし、大好きな神父さんの話も色々聞ける。その一心なのだ。

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