沈黙-サイレンス-

映画と。ライターによるクロスレビューです。

【作品解説】

(c) 2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

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戦後日本文学の金字塔、遠藤周作の「沈黙」をマーティン・スコセッシ監督が完全映画化。17世紀江戸初期、激しいキリシタン弾圧の中で棄教したとされる師の真実を確かめるため、ポルトガルから日本にたどり着いた若き司祭ロドリゴ。彼の目に映ったのは想像を絶する日本だった。信仰を貫くか、棄教し信者達の命を救うか―究極の選択を迫られる。原作と出会ってから28年、スコセッシ監督が激動の現代に「人間にとって本当に大切なものとは何か」を描き出す壮絶なドラマ。

【クロスレビュー】

富田優子/巨匠のあくなき情熱への敬意:★★★★★

映画を観てから原作小説を読んで驚いた。小説の世界観が見事に再現されていたからだ。スコセッシ監督が原作と出会ってから28年、映画化を切望してきたという巨匠の熱意には恐れ入るばかり。とにかく見どころ満載で、作品自体が信仰に捧げられているような、渾身の162分である。
再現されていたのはテーマの「弱者の救済」という点もさることながら、江戸時代初期の長崎の光景には瞠目した。外国人が日本を描く作品のなかには、日本人から見ると「?」な描写が時々ある。だが本作にはそのような不自然さは見当たらない。大河ドラマの時代考証も仰天の(?)完成度の高さだ。切支丹に対する苛烈な処刑も生半可な描写ではなく、その臨場感に慄いてしまうほど。そのリアルな描写の重要性をスコセッシは充分に理解していたのだろう。これがあったからこそ観客は、物語の真髄に近づくことができる。
神に関するあらゆる問いの矛先が自分自身に鋭く向かってくる生き地獄のような心情を狂わんばかりに演じたガーフィールド(ロドリゴ役)、切支丹をじわじわと追い詰める非情を独特の浮遊感で見せたイッセー尾形(井上筑後守役)など俳優陣も素晴らしい。わけてもモキチ役・塚本晋也の気高い肋骨演技は心掻きむしられる。作品を象徴するメインの画にガーフィールドと塚本の「でこタッチ」が選ばれているのも納得だ。巨匠の(恐らくハードルの高い)期待と情熱に応えている。

外山香織/ぜひ原作も読んでほしい度:★★★★★

※下記レビューは、映画のラストに触れています。

これほどまでに原作に敬意を払って作られた映画はあっただろうか。遠藤周作の小説と出会って28年、スコセッシ監督は原作に忠実かつ仔細に当たり、綿密な調査のうえ日本の歴史や日本人の宗教観を理解してこの映画の完成までこぎつけた。数えきれない困難があっただろう。かつて見も知らぬ異国に赴き布教に献身したパードレたちと同じ、監督の迸るような熱意を感じる。本作では、西洋と日本、キリスト教と仏教、神と信者、弾圧者である奉行と隠れキリシタン、神のために死んだ殉教者と神に背いた「転び者」と、様々な対立軸が描かれる。その中で、もがき苦しむ弱きものに光を当てる監督の眼差しは、原作者のそれと共通している。特に、自分の生涯をかけて信じてきたものを裏切らねばならなかったパードレの苦悩と屈辱。キリスト教会からは棄教者とされ、日本では「転び者」とされる。殉教も叶わず、キリスト教義では自ら命を落とすことも許されない。映画のラスト、クローズアップされる「あるもの」は原作にはない描写だが、ここに監督が彼らに寄せた心情が表れているような気がする。転んだ後の人生を沈黙して歩んだとしても、彼らが苦しまなかったとどうして言えよう。神の「沈黙」と彼らの「沈黙」は繋がっているようにも思えた。声なき声を聴こうとする耳を持っているか。この映画は、今の時代に生きる我々に、静かに問うている。


2017年1月21日(土)全国ロードショー

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