『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』ラース・クラウメ監督
『ハンナ・アーレント』等でも描かれた、1961年のアイヒマン裁判。アドルフ・アイヒマンと言えば、ナチス政権下で数百万人のユダヤ人の強制収容所移送に関して指導的役割を担ったことで悪名高い人物だ。アイヒマンは逃亡先のアルゼンチンでモサド(イスラエル諜報特務庁)により逮捕されたが、その陰で一人の男がアイヒマン追跡に執念を燃やしたことはほとんど知られていない。その男の名はフリッツ・バウアー。ユダヤ人でもある彼が、戦後行方をくらましたアイヒマン逮捕に心血を注いだ、知られざる実話を映画化したのが『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』(1月7日公開)だ。
舞台は1950年代後半のドイツ・フランクフルト。検事長として戦犯の告発に奮闘するバウアー(ブルクハルト・クラウスナー)だが、周囲に敵は多かった。戦後10年以上経ったもののドイツ国内には元ナチス党員が司法関係者や行政府、大企業などに大勢はびこっていて、バウアーへの捜査妨害は背筋が凍るほど凄まじく陰湿なもの。孤立無援となったバウアーは信頼できる部下カール(ロナルト・ツァアフェルト)に協力を求め、アイヒマンを逮捕し、ドイツで裁判にかけるという一念で突き進んでいくのだが・・・。そんなバウアーに光を当てた本作はドイツ映画賞で作品賞、監督賞、脚本賞など6冠に輝き、世界各国でヒット。戦後ドイツの過渡期にあって、いまだちらつくナチスの残像や戦争の傷跡の深さ、冷戦下の国際関係の力学などを織り込み、かつサスペンス的な展開でエンターテインメントとして引き込みつつ、ドイツ人が歴史と向き合う契機を築いたバウアーの努力に敬意を示している作品だ。本作を成功に導いたラース・クラウメ監督のインタビューをお届けしたい。
――本作は自ら暗い歴史を直視することが未来への希望に繋がることが描かれていると思います。また、法の裁きは罪自体を罰することであると同時に、犯罪の経緯や事実を明らかにすることで人々に過去を向き合わせる意味もあると思います。フリッツ・バウアーはそれを実践した勇気ある人だと思いますが、ドイツ国内で彼の活躍がこれまであまり評価されていなかったことについて、クラウメ監督はどう考えておられますか?
ラース・クラウメ監督(以下LK):フィリッツ・バウアーは歴史学者や政治家などの知識層、ユダヤ人コミュニティなどには知られていましたが、多くのドイツ人が知らなかったのは事実です。僕自身も共同脚本家のオリヴィエ・グエズの著書(第1章にバウアーに関する記述あり)と出会うまで、彼の存在を知りませんでした。彼が忘れ去られた理由は明確に分からないのですが、僕個人として一つ考えたのが、ドイツの暗い過去に直面したくない人たちがいて、彼らはバウアーと対立関係にあったことです。彼の存在がドイツ人の暗い過去を自覚させてしまうからでしょう。当時は多くのドイツ人が沈黙し、自分たちの罪から目を背けてきました。バウアーの存在がそんな人たちを苛立たせたのだと思います。1968年にバウアーが亡くなったことを喜ぶ向きもあったようです。その後再び(イスラエルの政策を批判する)反ユダヤ主義が台頭したこともあり、結果的にバウアーは、時代の波に呑まれてしまい忘れ去られたままになっていたのですが、最近になって(バウアーが登場する)『顔のないヒトラーたち』が発表されたり、彼の生涯に関する展覧会が開催されて資料や伝記が出たりするなど、改めて知られるようになりました。
――本作では特に回想シーンや実際のアイヒマンの映像などはありません。その一方で冒頭にバウアー本人の記録映像(アイヒマン裁判のテレビ告知)を使っていますが、その理由は何でしょうか?
LK:実際のバウアーはとても個性が強い・・・というかアクの強い人でした。映画のなかでもブルクハルト(・クラウスナー)に、実在のバウアーのように演じてほしい、彼の痛みを伝えられるように演じてほしいと頼んでいました。ですが最初にお話したようにバウアーを知っている人は少ないんです。バウアーを知らない人が見て「ブルクハルトがやけに過剰な演技をしている」と思われたらどうしようと心配しました。でも最初に記録映像を見せることで、観客はブルクハルトの演技は役者と監督が思いついた表現ではなく、バウアーそのものであることを理解できる。結果的に最高のイントロになったと思います。実話ものだと「True Story」とテロップを出す作品もありますが、文字ではなく記録映像を見せることで、これが実話であること、バウアーの物語であること、彼が若者に伝えたいこと、そしてアイヒマンを裁くことへの強い思いに満ちていて、イントロとしてぴったりでした。
逆に、アイヒマンの残忍さは誰もが知っています。彼の記録映像は大量にあるし、映画に入れ込むことは簡単ですが、皆がすでに知っていることをあえて入れる必要はないと考えました。