【FILMeX】エグジール(特別招待作品)
言葉が画面から溢れだす。散文であったり、詩であったり、つぶやきであったり。ひとつひとつ書き留めておきたい、もう一度繰り返し、聴いてみたい、読んでみたい、そんな思いに捕らわれる。「わかりやすい言葉には気をつけなければならない」「革命とは、1つの階級が、別の階級に取って変わること」過ぎ去ったあの時代のことだけでは済まない、今の時代にも通じる言葉も次々と投げかけられる。
確かに、クメール・ルージュが首都プノンペンを支配した日、何も知らない大衆は、熱狂していたのである。思えば、ドイツではヒットラーに人々は熱狂し、日本でも満州建国に人々は熱狂していたのではなかったか。熱狂は冷静さを失わせ、人々の判断を狂わせる。理想を掲げる善人は現実を見ず、現実を知る悪人は、理想を喰い物にする。人は都合の悪い事実には、目を背ける。どこにでも起こること。いつの時代も同じこと。
豊かなイメージが画面から溢れだす。クメール・ルージュがカンボジアを支配していた時代、恐らくリティ・パン少年も押し込められていただろう粗末な小屋は、まるで宇宙のような広がりを見せる。本や、レコード、ギターに囲まれた、豊かな時代の部屋のイメージが現れたかと思えば、次の場面では、それらは埃にまみれ朽ち果て、単なるゴミと化している。美味しそうな食卓の料理も、次第に腐り、干からび、お皿は泥にまみれる。テレビには、恐らくリティ・パン監督の前作『消えた画 クメール・ルージュの真実』にも登場していた、残された貴重なフィルムによる、革命前のプノンペンの街が写しだされる。あるいは、過酷な強制労働の様子に、プロパガンダが重ねられる。あるいは、革命前の女性歌手の写真が動き出し、西洋風の歌を伸びやかに歌う。
彼は寝ては目覚め、そしてひたすら食べる。樹の皮を煮詰めて齧る。トカゲを捕まえて皮をはぎ焼く。川でタニシのような巻貝を拾い集めて茹でる。どこかで拾ってきたトウモロコシを一粒一粒、丁寧に剥がしてオカユにする。コオロギをそのまま焼いて食べる。飢えの記憶というのは、強烈に頭の中に残っているものなのだろう。
小屋は、場所も時代も超越し、自由にそのイメージを変えていく。ここは家の中であり、屋外でもあり、空でもあり、川でもあり、宇宙でもある。ただ、ここにはリティ・パン監督自身を思わせる主人公以外には、誰もいない。彼は常に孤独に、この小宇宙を漂っている。
この作品はドキュメンタリーなのだろうか、フィクションなのだろうか、詩なのだろうか。おそらく映画、文学さまざまなジャンルを飛び越えたところに、この作品はあるように思える。映像表現の無限の可能性がこの作品には含まれているように感じられる。これは、リティ・パン監督自身の見る悪夢の世界であり、彼の精神風景そのものなのだろう。時に、他人の頭の中に入りこんだような錯覚さえ覚えてしまう。
主人公が、部屋の真ん中に現れた大きな岩を苦労して部屋の隅に運ぶ。もうすぐで運び終わるかという頃、また彼の後ろに同じような岩が出現する。すると、彼はまた同じように苦労して、それを部屋の隅に運ぶ。この作業が永遠に繰り返される。いかにも悪夢である。実際に見た夢のように鮮烈だ。ここにリティ・パン監督自身の気持ちが、よく出ている。自身の体験、カンボジアの悲劇を映画にし、または本にし続ける監督が、それを続けざるを得ない理由が、そこにあると思えてならない。自分が背負った重い心の傷を頭の中心から少し離してみる作業、それこそが彼にとっての映画製作、本の執筆なのではなかろうか。例え国を離れていても(エグジール・亡命者)、確かに今でも彼はこの小さな部屋の中にいる。暗い小さな部屋の中で蝋燭を灯し、亡くなっていった家族や、失われた時間を、一人孤独に悼んでいる。
▼第17回東京フィルメックス▼
期間:2016年11月19日(土)〜11月27日(日)
場所:有楽町朝日ホール・TOHOシネマズ日劇
公式サイト:http://filmex.net/2016/