エルヴィス、我が心の歌

エルヴィスになろうとした男の最後の夢

エルヴィス我が心の歌男って本当にクズな生き物だなという事を確認させてくれる映画というのがたまにあって、そういう映画は面白いとかどうとかを抜きにして、なぜか忘れられない映画になってしまう。例えば『リービング・ラスベガス』や『トレインスポッティング』や『ニル・バイ・マウス』や『レスラー』、どれも自分にとっては愛すべき映画だ。そんな愛すべきクズ男の映画がまた1本増えた。

昼は金型工場で働き、夜はエルヴィス・プレスリーのインパーソネーターとしてステージに立つカルロス。知り合いに自分をエルヴィスと呼ぶ様に強制し、エルヴィスの好きなピーナッツバターサンドを食べ、全然違う名前の妻をエルヴィスの妻と同じプリシラと呼び、娘にエルヴィスの娘と同じリサ=マリーと名付けるほどのエルヴィスへの過剰な傾倒に愛想をつかし妻は娘を連れて別居したが、妻の事故をきっかけにカルロスは娘と向き合う様になる。しかし、カルロスにはどうしてもかなえたい夢があり、妻と娘をアルゼンチンに残しエルヴィスファンの聖地グレイスランドへ向かう…。

インパーソネーターというのは物まね芸人とは似ている様で違い、ステージに立つ時以外の生き方までもその人になりきる人の事を指す。エルヴィスの他には、マイケル・ジャクソンのインパーソネーターも数の多さで匹敵するだろうか。家庭をほったらかしてまでエルヴィスになりきる究極の演者であるカルロスを見て、これはイタい奴だなと片づけてしまうのは簡単だろう。でも、世の中に何かを演じていない人なんているのかなと自分は思ってしまうのだ。筆者自身が人生で演じていますよとここで言ってしまう様なものだが、あなたはよき夫やよき親やよき社会人だったりを大なり小なり演じてはいないかと聞かれて、いや自分はそんな事ない、自分に正直に生きているよと言う人はむしろ信用出来ないと思っている。素の自分で生きていけるほど人生は甘くはないと思うから。生きづらい世の中で、何かを演じる事によって世間との折り合いをつける行為を恥ずべきものだとはまったく思わない。

そう考えると、一見共感出来ないクズ男のカルロスがスッと隣に寄り添ってくる。常に何かを演じていないと生きていけない弱いこの男は、自分と同じ人間なのだ。自分がエルヴィスだと思い込む事がアイデンティティである人と、自分がまともな社会人だと思い込む事がアイデンティティであるサラリーマンに大して違いなんてない、人ってそれぞれ違う様でも一皮むいたら同じ弱い生き物なのだ。そう思うと、なぜか人に優しくなれる様な気がする。自分がクズ男映画を好きな理由は、自分も同じ弱い人間だという事を気付かせてくれて、それでも頑張って生きていこうと思わせてくれるからだと思う。

このレビューを書こうと思ったのはエルヴィスのファンだからなのだが、ファンの目から見ても納得の歌声が聴ける事もこの映画のよさ。エルヴィスの口癖のTake care of businessというセリフだったり、歌声が聴こえないのにアクションだけでこの曲はバーニング・ラブだって分かったりするのもエルヴィスファンの心をくすぐる出来だ。そして、最後の最後まで何かを演じなければ生きていけなかった男の悲しさや弱さに胸が熱くなるとともに、エルヴィス・プレスリー本人もまた同じくそういう男の1人だったのかもしれないと考えると、見終わった後にファンとしてさらに胸を熱くしてしまった。

2016年5月28日より渋谷ユーロスペースほかにて全国順次公開

提供:パイオニア映画シネマデスク

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