ちはやふる 上の句/下の句
もうひとつ、太一には秘密があった。小学生のころ、かるたに負けて千早に嫌われるのが嫌で新のメガネを試合前に隠してしまったのだ。そこから、彼はかるたの神様に見放されてしまったと思っている。ここぞという時に、運は絶対に自分の味方をしない。犯してしまった罪は、もう何をやっても消せない。この思いが常に心の中にあるのだ。
人は弱くて、ズルくて、時には手も抜きたくなる。「才能ないから」「向いてないから」。自分がやらない理由を、いろんなもののせいにしている。おそらくほとんどの人が、こんな気持ちになったことがあるはずだ。それでも、太一と机くんはかるたに戻ってくる。「向いてない」と分かるまで自分はやりきったのだろうか。才能ある人間でも努力しなければならない。足の甲にアザができるほど畳の上で奮闘し、素振りを続けた人間にしか「向こう側」にしか渡れない。そして彼らもきっと、そういう人間になりたいと思ったのだ。
運に見放された太一には、であるがゆえに、東京都予選決勝で強豪・北央学園との「運命戦」が待ちかまえる。敵も自分も一枚の札しか残っていない状況のことだ。自陣の札が詠まれたらそのまま押さえて勝ち。普通は誰もが運を天に任せる。しかし太一は発想を変えた。「(運が自分に)来ないと分かっているなら、取りに行け!」である。その結果がどうあろうと、この場面には心奮わずにいられない。
更に素晴らしいのは、離れてしまった机くんの心を呼び戻すのが、この物語の土台となっている百人一首であるという点だ。前大僧正行尊の「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」。深山に入った修行層の孤独を表した歌だが、千早はこれを仲間との絆の歌だと解釈する。一つの歌が、再び聞くときには別な意味合いを帯びてくる。しかも札一つで分かり合えるのは歌の意味を知る者同士だからであり、それがチームの絆であると同時に、日本古来の文化が今の日本人の心にも生き、かつ人生を豊かにするものであることをも表している。歌が答えを導く。「もろともに」のエピソードは、百人一首へのリスペクトとなっているのだ。