LISTEN リッスン
映画館を一歩外に出た時、身体の中にリズムが余韻として残っていた。歩きながら、腕が自然にリズムを刻む。ミュージカル映画を観たわけではない。音楽映画を観たのでもない。それどころかこの映画は、完全なるサイレントである。一体この感覚は何なのだろう…これはまったく新しい体験としか言いようがない。
牧原依里、雫境(DAKEI)共同監督は、聾(ろう)者、そして出演者も皆、聾者である。鑑賞前には耳栓が配られる。観客席の雑音までカットし、聾者の方たちに近い環境で映画を体験できる、という仕掛けになっている。タイトルは『LISTEN リッスン』“聴いて下さい”何を聴くか。音楽、正確に言えば音楽の魂である。サイレントであるということと一見矛盾するようだが、鑑賞後には、その意味するところが良く分かる。
6人の男女が互いに手や足、身体でリズムを取りながら踊っている。最初はバラバラに見えた踊りが、それぞれの動きこそ微妙に違うものの、リズムが調和していき、やがてハーモニーとなる。まるでソプラノ、アルト、テノール、バスが混声して合唱となるのと同じように。音が無くても、一定のリズムを刻み、人と共鳴できる。それが最初は不思議だった。けれども映画が終わり、そのリズムが自分の身体の中にも刻まれているのを感じた時、それが何であるかがわかったような気がした。音楽があるからリズムがあるわけではなく、リズムは元々人が持っているものなのである。心臓の鼓動はリズムである。呼吸もリズムである。細胞レベルでもリズムは刻まれている。身体の内にあるリズムと外界のリズムとの間には、相関関係があるに違いない。故にリズムが激しければ昂揚した気持ちになり、ゆったりしたリズムは安心感をもたらし、リズムが遅すぎれば重さを感じ、あるいは乱れたリズムには不安を感じる。そう考えると、他人の繰りだすリズムと自身の内にあるリズムが共鳴しあう現象も、容易に理解できる。
『そして船はいく』(フェデリコ・フェリーニ監督)のなかで、音を聴くと様々な色が見えてくるという、盲目の女性が登場する。確かに音楽や感情は、色で表現されることもしばしばだ。哀しみのブルー、情熱の赤。ウォルト・ディズニーは『ファンタジア』で、クラシック音楽を絵で表現しようと試みた。その中でも特に「トッカータとフーガ ニ短調」は、抽象的な図形の動きや光の点滅だけで、音のリズムや高低、広がりが表現されている。
実は、本作の米内山明宏氏のパフォーマンス「四季」を観ていて、思いだしたのが『ファンタジア』だったのである。春にはそよそよと風が流れ、鳥や蝶が飛び、蕾が花になりそれがやがて散る。夏には打ち上げられた花火が、パッと広がりその火の粉がパラパラと川面に落ちて行く。米内山明宏氏の手の動きは、まるで詩のようであり、そのリズムは、音楽を思わせる。もしかすると、聾者の方たちは、耳ではなく、目で音楽を感じているのではなかろうか。これらのことは、視覚と聴覚が独立した器官のようでいて、実は互いに切り離せない関係にあるのでは、という思いを抱かせてくれる。だからこそ人は音楽から絵の心を感じ、絵から音楽の心を感じることができるのだ。
音楽の3要素とは、メロディとハーモニーとリズムである。6人の男女の身体の動きは、まったく同じというわけではないのに、調和が取れているという点で、リズムだけでなく、そこにハーモニーがあると言える。米内山明宏氏のパフォーマンスの詩的な手の表現、その内にあるドラマ的な時間の流れに、メロディのようなものを感じ取れる。音ではなく、目で感じるメロディ。そう考えるとこれらの身体表現は、限りなく音楽的なものと言えるのではなかろうか。鑑賞後、音がないのに、音楽映画を観た時のような感覚を抱いた理由も、そう考えると合点がいく。本稿では2つの例を取り上げたが、本作では、他にもいくつもの個性豊かなパフォーマンスが紹介されている。魂の内をさらけ出す歌のようであったり、愛を囁きあうデュエットのようだったり、それぞれが音楽的な心を感じさてくれるものだ。まさに百聞は一見にしかず。この感覚は、何より自分の目で、身体で体感していただくほかないだろう。