【TNLF】コンクリート・ナイト
トーキョーノーザンライツフェスティバルが有難いのは、毎年、日本ではあまり知られていない、もしくは紹介されてない監督の特集を組んでくれることである。昨年は、アンドレアス・エーマン、ヨアキム・トリアー。一昨年は、スウェーデンでは巨匠というのに、日本では劇場公開作がほとんどないヤン・トロエル。そして今年は、何と言っても、ピルヨ・ホンカサロ監督である。ジャーナリスト出身、ドキュメンタリーの監督が多い人と聞いていたのに、このめくるめく映像世界は、一体何なのだろうと思ってしまう。『コンクリート・ナイト』はIMDBではモノクロと紹介されているのだが、実は完全なモノクロではない。海の中のシーンには微かに色が付いているところがある。モノトーンの世界だから、モノクロに見えているだけなのである。わざわざこんな凝ったことをする人なのである。
『コンクリート・ナイト』は14歳の少年の心の内側を、映像で表現した作品である。『白夜の時を越えて』でも、登場人物の精神世界を映像で表現するといったことが行われていたが、本作はそれがさらに徹底されている。イメージの洪水である。
冒頭の夢のシーンから圧倒される。海の底から眺めた海面のように揺れ動く雲、絶え間なく落ちてくる雨、突然崩れ落ちる橋、その橋と共に落下する列車。それを眺めていた少年は、いつしか列車の中に入っており、車内に溢れ、やがて天井まで上がってくる水と闘い、必死に脱出しようとしている。周りにはクラゲが漂い、海藻が揺らめく。よく見ると、車内に男性の裸の写真があるのもわかる。一瞬、光の加減で、少年に色が付いたように見える瞬間がある。車内から窓を叩くが、一向に割れる気配がない。これだけでもう少年の危うい精神状態がわかってしまう。
映画の全編に水のイメージが溢れている。コンクリートの無機質な団地には雨が降り、少年が家に帰る道筋の地下駐車場には、常に水が滴り落ちている。エスカレーターの、鏡のようになっている天井に写しだされる少年の顔は、波の谷間で揺れているようにも見える。もちろん水は性を象徴している。もっとも、少年が母親に甘えるシーンでは、それが子宮への回帰願望ということで使われているし、またラストシーンの意味するところはそれとは違う。しかし、それ以外はすべてそうであると言ってもいいだろう。特に刑務所への入所を控えた兄に奢ってもらった飲みものは、露骨なくらい男性性器をイメージさせるものである。それは、少年が性への目覚めの季節を迎え、もしや自分はホモセクシャルの気があるのではないかと、心が揺れているのをより鮮明に浮かび上がらせている。思えば、友達と一緒に海で泳いだシーンでも、冒頭の悪夢のイメージがすでに忍びこんできており、彼の隠れた意識が目覚めていたのではなかったか。
少年は、鏡を頻繁に見る。鏡はいつも曇っており自分の顔がよく見えない。少年は、その曇りを取ろうと、いつも手で拭きとっている。彼は、今自分が見えていない。けれども己を知ろうと、もがいているのである。それと同時にこのナルシズム的な行為は、文字どおりギリシア神話のナルキッソスの物語からの引用にもなっている。預言者がナルキッソスに掛けた言葉「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と同類の言葉を、実際向かいの同性愛者の男が、彼に忠告するのである。ナルキッソスは、男からも愛されたというところからすると、この男がこれを言うのは何やら意味深だ。しかし男は同時に、少年にギリシア彫刻のような、あるいはローマ時代のまさにナルキッソスの絵画のような格好をさせ、写真を撮ろうとする。彼のその行為を通じ、少年は、完全に己を知ってしまったのかもしれない。
しかし、そうであったとしても監督自身は、己を知ること自体が、この映画の悲劇の原因とは考えていないように思う。ナルキッソスの話には、水面に写った自分に口付けをしようとして、落下し水死したという話があるが、少年は、遊園地の鏡の迷路の中で、自分にキスしようとして、思いとどまっているからである。その行為をしない時点で、彼はナルキッソスではないのである。むしろこの物語の悲劇性は、思春期の危うさにあり、それに気が付けない大人、それを喰い物にする大人の側に原因があるのだ。古典的な物語を引用しながらもそれに溺れず、あくまでも現実の物語として、またその心の内面を描くことに徹する姿勢が、リアリストのピルヨ・ホンカサロ監督の真骨頂なのではないだろうか。
▼トーキョーノーザンライツフェスティバル 2016▼
「北欧映画の一週間」
会期: 2016年2月6日(土)~2月12日(金) ※音楽イベントは別途開催
会場: ユーロスペース他
主催: トーキョーノーザンライツフェスティバル実行委員会
公式サイト: http://www.tnlf.jp/index.html
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