サウルの息子

映画と。ライターによるクロスレビューです。

【作品解説】

『サウルの息子』メイン2015年のカンヌ国際映画祭のコンペ部門で、ある無名の新人監督の作品が上映されると、場内は異様な興奮に包まれた。その衝撃は瞬く間に映画ジャーナリストたちの間に伝わり、その卓越した撮影法と演出により、長篇デビュー作にして見事カンヌのグランプリを獲得するという異例の快挙を成し遂げた。その新鋭監督とは『ニーチェの馬』で知られる名匠タル・ベーラの助監督をしていた38歳のハンガリー出身のネメシュ・ラースロー。強制収容所に送り込まれたユダヤ人が辿る過酷な運命を、同胞をガス室に送り込む任務につく主人公サウルに焦点を当て、サウルが見たであろう痛ましい惨劇を見る者に想像させながら描く。これまでの映画で描かれた事の無いほどリアルなホロコーストの惨状と、極限状態におかれてもなお、息子を正しく埋葬することにより、最後まで人間としての尊厳を貫き通そうとした、一人のユダヤ人の二日間を描いた感動作。

【クロスレビュー】

※下記レビューは物語の結末に触れている点があります。

外山香織/観終わって誰かと語りたくなる度:★★★★★

息子の死体をきちんと埋葬してやりたい。強制収容所の「ゾンダーコマンド」として虚ろな目で生きる男を変えたのは、その一念だった。父親が本当にその願いを叶えることができたなら、観ている側もどんなに救われただろう。しかし、若き監督は安易な結末を許さなかった。映画の中で、「サウルの息子」の素性は最後まで明らかにはされない。お前に息子はいない、と仲間は言う。同胞を日々死に追いやり、自分も数か月後には殺されるということを知りながら生きる地獄。そこで崩壊していく人間の、最後に抱いた一筋の光は夢なのか現なのか。自分の見てきたものがひっくり返されるこの感覚は、アン・リー監督の『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』に似ている。人は見たいと思うものしか見ない。最後、サウルの目には何が映っていたのだろうか。

富田優子/二つの希望を感じる度:★★★★★

死んだ息子を埋葬したいという思いは、ユダヤ人の父親であれば誰もが持つ普通の感情なのかもしれない(ユダヤ教では火葬は死者が復活できないとして禁じられているため)。だが異常な状況が当たり前の収容所では、サウルの行動が常軌を逸しているように感じるのだから、あまりにも狂った世界に慄くばかりだ。
本作で瞠目するのはまずカメラワーク。カメラは常にサウルの側にあり、生きて地獄にある彼が人間として踏み止まれるか否かを監視しているかのように、彼を執拗に捉え続ける。だがラスト、カメラがサウルを離れたと同時にその役割を終え、代わりに赦しが与えられた(と信じたい…!)ことに、人間の強さへのかすかな希望を見た。そしてホロコーストものの映画は数多くあれど、ガス室に始まり、殺戮→遺体運搬→遺体焼却→遺灰を川へ投棄、というおぞましい過程に沿って物語が展開するのが凄い。小説の映画化や続編もの、リメイクものが溢れ、オリジナリティー不足を感じる昨今、こんなにも斬新で大胆な物語の語り口があったことに喜びを覚え、映画も「まだできる」「まだ語るべきことがある」メディアだと確信した。そういう意味で映画への希望も見えた作品だ。

鈴木こより/必見作、でも2度と観たくない度:★★★★★

ホロコーストで同胞をガス室に送り、死体処理をするという任務につくユダヤ人のサウル。もはや思考も感情もマヒ状態で、命令されるがまま動いている。生者と死者の境界がほとんどないようなおぞましい状況のなか、カメラはサウルの背後から、彼の小さく虚ろな視界と背中から伝わる息づかいを生々しく映し出す。
そのガス室で少年=息子?の最期を目の当たりにした時から、皮肉にもサウルは強い意志を持ちはじめる。息子を埋葬するため、命令に背き、危険もかえりみず、ただひたすらに行動していく。それは愛や信仰を超えた、本能のようにも見えた。ラスト、対岸で出会った少年に死者の復活を見たのだろう。サウルの救われた表情が忘れられない。スクリーンから流れる光景に圧倒され、絶句する107分。


(C)2015 Laokoon Filmgroup
1月23日(土)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー

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