美術館を手玉にとった男

創作と模倣の境界 【映画の中のアート #12】

美術館を手玉にとった男_main驚くべき話だ。美術作品の贋作を作り続けて「全米20州、46の美術館を30年騙し続けた」男を追ったドキュメンタリー。何が一番驚いたかって、彼の行動が罪に問われなかったことである。詐欺罪にならないのか!? と憤ってしまいたくなるが、ポイントは彼が作品を無償で寄贈していることであり、受け取るかどうかの判断は美術館側に委ねられていると言うことだろう。結局は、「ニセモノつかまされた方の落ち度」ということになってしまうのか。

しかし、美術館に同情したくなるのは、贋作者(マーク・ランディス)の作品の出来栄えは、騙されるのもやむを得ないというレベルだということ。しかもコピーされたのはピカソ、シニャック、ドーミエ、ヴァトー、スヌーピーの作者チャールズ・シュルツ……果ては公的文書の偽造まで。ジャンルも何もばらばらである。「購入」と違って「寄贈」なら鑑定の際のチェックも甘くなるのだろう。お金が絡んでいれば大きな犯罪になっていただろうが、彼はあくまで自分の行動は「慈善活動」だと語る。もちろん、相手を騙そうという意志はあるし、身分を偽り(時には神父となって!)資産家の姉がオークションで競り落としたなどと話をでっち上げて作品を持ち込む。嘘をつくことをどう思うのかと問うと「聖ペテロだって嘘をついていた」と返す始末。自分の才能は生かすべきで、「人が見て喜ぶ=人の役に立つ」嘘であれば良いと言う彼なりの論理なのだろう。

全く、その才能を自らのオリジナル作に生かせばいいのにと思うのだが、「オリジナルなんて存在しない。すべて元ネタがある」と語るランディスの言葉には、オリジナリティを追求することへの無意味さを感じ取る。本作の原題は“Art and Craft”。どこまでが工作でどこからが芸術なのか。私は、何となくこの辺が、創作の際の「オリジナリティ」と「模倣」の境界、いわばグレーな部分に触れているのではという気がする。

いったい作品のオリジナリティとは何なのか。究極的なことを言ってしまえば「着想」「アイディア」なのだろうか。東京五輪マークを巡る議論でもあったように、世界中で似ているものを探せば、ほかにあるかもしれない。誰かの着想も、何かにインスピレーションを得たとなれば何をオリジナルと呼ぶにふさわしいのか。偉大な芸術家も先人の作品から多くを学ぶ。弟子や後進の者たちに模写されたり、複製が出回ったりもする。それらは芸術作品とは言えないのだろうか?

絵画や彫刻のみではない。クリエイトされるもの、例えば映画も小説も音楽も当てはまるだろう。リメイクやパロディ、オマージュと言ってはオリジナルを引用する。それらがランディスの描いたものと同じだと言う気はない。が、オリジナリティをどこまで発揮すれば芸術作品となるのかという境界が曖昧な中で、もはや自らの独創性を追求することを優先せず、ネタとしてオリジナルを活用すること自体は、悪いとは言えないのではという気もする。

劇中ではランディスがカラーコピーをうまく利用(悪用?)して贋作を作り出している手法も明らかにされている。学術論文も簡単にコピー&ペーストされる時代、この分野においても、似たようなことが起こりつつあるのかなどと思ってしまった。

とは言え、ランディスの行動は、本物だと思ってはるばる美術館に鑑賞しにやって来る人間の期待を損なっているのは事実。美術ファンからすると、やっぱりもうやめてほしいと言うのが正直なところだ。


©Purple Parrot Films
2015年11月21日(土)よりユーロスペースほか全国順次ロードショー

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