【LBFF】火の山のマリア:ハイロ・ブスタマンテ監督テイーチ・イン
作品紹介(レビュー)
マヤ族の母と娘が、蒸気の吹き出す火山に昇り、岩の間に作られた祠のようなところに蝋燭を立て、お祈りをする。「どうか娘が健康で幸せでいられますように」グアテマラも火山国である。太平洋側に火山が密集して、環太平洋火山帯の一画をなしている。原題のIxcanulとは、現地の言葉で火山を意味するという。マヤ族というと、古代マヤ文明というイメージが強く、エキゾチックな印象を持っていたが、我々日本人と同じく山への信仰があるのを見て、意外にも親しみを感じた。
親が決めてきた結婚を、心の中でどうしても受けいれられないマリア。農園主との結婚は、一家にとって家を得、仕事を得、生活の安定をもたらすものだった。しかし自分の一生をここで決めるのは、若いマリアにとっては、まだ早すぎるように思われた。もっと別の人生もあるのではないか。同じ年ごろのペペが、アメリカに行く計画を語るのを聞くにつけ、むしろ自分も一緒に連れてってもらいたいという思いが強くなるのだった。
この社会では、女性が大切にされている。結婚するにも、両家の家族会議のようなものがもたれ、その中でこの娘が、家に相応しいかどうかが品定めされる。だから大事にされるのは、あくまでも家にとって重要な存在という意味であって、そこから外れることは許されない。要するに、ここは女性に自由な選択肢がない社会なのである。
そんな社会の中にあって、農園主との結婚がご破算になりかけたところでも、いつも最善の策を考え、娘をいたわろうとする、母親役のマリア・テロンが素晴らしい。娘を愛する気持ちが痛いほど伝わってくる。どんなことがあっても娘をかばおうとする、その包容力、その逞しさ。彼女こそ山そのものである。この家族の物語の中では、母と娘の強い関係が、作品の核となっている。マヤ民族は、村落の結びつきが非常に強く、手織の民族衣装は村ごとに異なり、母から娘へと伝えられていくという。そうしたことが、母と娘の繋がりをより一層強くしているということもあるのだろう。
おそらく、物語自体は、世界中のどこにでもあるもの。いや、それだからこそ、この国の抱える問題がより鮮明になってくるのではなかろうか。マヤ族が全人口の半分近くを占めるというのに、役所も病院も言葉が通じないということ。近くに呪い師はいても、お医者さんがいないということ。子供が生まれても貧しさを理由に、お金と引き替えに、養子に出されてしまうこと。農園があっても、自作農ではなく雇われ身分であるため、村自体が貧しいこと。若者たちは、給料を使い果たすまで酒場で呑み、無為な日々を過ごしているということ。
そんな若者がメキシコの砂漠を越えて、アメリカに辿りついたところで、マヤ語(22種類の違う言語があるという)を通訳できる人がいるわけもなく、路頭に迷うだけであろう。「村の外に出るのが怖くないの」マリアがペペに聞く。グアテマラは21世紀に入る直前まで、内戦や軍政が続き、多くのマヤ族の人たちが犠牲になっている。彼らが、外に出ることも叶わず、貧しくてもそこに留まらざるを得ないのは、長い間の国への恐怖、不信感もあるのではなかろうか。実は、この国の内戦は、アメリカのCIAが関与していたというのに、そんなことも露知らず、アメリカに希望を持つこの村の若者が、誠に痛ましい。