【SKIP CITY IDCF】あした生きるという旅

人は、愛するために生きる、明日を生きるために愛する。

あした生きるという旅main【SKIP CITY IDCF2015】長編コンペティション部門

 意識はしっかりしているのに、身体が動かない、しゃべれない、こんな状態を想像できるだろうか。ALS(筋委縮性側索硬化症)。筋肉の機能が衰え、やがて自力呼吸も出来なくなり、死に至る病。原因は明らかになっていない。治療法はない。運動神経に障害が起こることによって筋力が弱っていくので、リハビリでその時を遅らせることができるわけではない。全国で9000人もの患者がいるという。その昔はゲーリック病と言われた。大リーグのルー・ゲーリック『打撃王』。映画化もされた。ホーキング博士の半生を描いた『博士と彼女のセオリー』も記憶に新しい。

 このドキュメンタリーの塚田宏さんは、48歳でこの病を発症。以後30年余りを病と共に過ごし、今では動くのは眼球のみである。眼球の動きだけが意志を表す唯一の手段。ルー・ゲーリックの時代には、呼吸が出来なくなれば死ぬしかなかったが、現在の医療では、人工呼吸器によって、また栄養も直接胃に流し込むことによって、命を繋ぐことが可能になった。しかし人間は、腹立たしいこと、辛いこと、悲しいこと、嬉しいこと、それに対して怒って、愚痴を言って、泣いて、笑って、精神のバランスを保つ。それができないことの意味。それは、生きるために必要な力を奪われること。それでも生きるという決断は、あまりにも重い。

 「出会いは命の道案内」という宏さんの言葉のとおり、彼と妻の公子さんは世界中を旅した。行く先々で、同じような病気で苦しむ人たち、その家族に出会い、彼らを勇気づけた。障がい者のための障がい者による作品を、世界各国から集めた映画祭look&roll(スイス)にも、出掛けて行った。映画祭のパネルディスカッションでは、どうやって患者が尊厳を保って死を迎えるかということがテーマとなり、失望も感じたが、会場に来ていた人たちとは、気持ちをひとつにすることができた。例え自分では何も出来なくても、そこに存在することで、人々の心を大きく動かすことができる。撮影されていることの意味について、宏さんは「自分が生きた証」と答えたが、こうした活動は、「自分が生きていることの証」だったのではなかろうか。

 確かに映画を観終わった当初は、宏さんの手となり足となり口となった妻の公子さんの印象が強く残った。時に冗談を言ったり、普通の夫婦らしく怒ってみたり、このような状況でも出来る限り日常を保とうとしている。その精神力、ヴァィタリティー、辛くないはずはない。けれども日常を忙しく過ごすことで、生きていけるということもある。また、文字盤を目で追わせることによって、やっと伝えられる小さな言葉。それが必ずしも大切なことではなく「もし病気が治ったら、一人旅に出たい」なんて憎まれ口だったりすることが、彼女にとって小さな喜びになったりする。

 宏さんが旅をし、人と出会うことは、他人を勇気づけることであると同時に、何より妻公子さんに生き甲斐を与えることでもあったはずだ。彼女は、国内外は問わない、年齢の老若も問わない、さまざまな人間関係を築くことができた。同じ境遇にある人同士だけにしか分かちえない魂の繋がりのような関係を、他人とも作ることができた。そう考えると、むしろ生かされていたのは、彼女のほうではなかったかとも考えられる。いや少なくとも、二人はお互いの存在なくしては、ここまで生きてこられなかったのかもしれない。もし眼球も動かなくなったらどうするか。この究極の決断を迫られた時の宏さんの答えの意味を、ずっと考えていた。その言葉は今ここでは書かないが、その短い言葉、そこにこの夫婦の関係のすべてが語られているように思う。すなわち、妻への愛こそが、彼が生きることの最大の理由だったのではなかろうか。生きることとは、人を愛すること。二人を通してカメラが見つめ続けたのは、“生きることとは何か”その究極の答えである。


▼作品情報▼
監督:内田英恵
出演:塚田宏、塚田公子、塚田学
2014年/日本/83分
上映日時:7.25(土)11:00~
©Hanae Uchida



poster_visual_2015【SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2015】
●会期:2015年7月18日(土)~26日(日)
●会場:SKIPシティ 映像ホール/多目的ホールほか(埼玉県川口市)
こうのすシネマ/彩の国さいたま芸術劇場(※7月19日、20日のみ)
●主催:埼玉県、川口市、SKIPシティ国際映画祭実行委員会、特定非営利活動法人さいたま映像ボランティアの会
●公式サイト:http://www.skipcity-dcf.jp

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