『翼の世界』:馬場良秀さん (『島耕二監督』監督・撮影)トークショー
3月20日渋谷アップリンクにて、「柳下美恵のピアノdeシネマ2015」の2回目の公演が行われた。今回取り上げられたのは、『翼の世界』。それと同時に、のちに監督として活躍することになる、主演の島耕二の晩年の記録映像『島耕二監督』も上映され、終映後には、本作の馬場良秀監督を招いてのトークショーが行われた。
【作品紹介】
『翼の世界』
(監督:田口哲 主演:島耕二 40分/日活多摩川/1937年/DVD)
飛行機に乗り、スピードを記録することに賭ける若者ふたり。腕は一流だが、その無謀さを心配した飛行機会社幹部により、最新鋭機のテストパイロットから外されたその内の一人が、無断で機に乗り込み飛び立つも、折からの気象状況の悪化により着陸に失敗、大怪我を負う。輸血をしなければ命が危ない。もう一人のパイロットであり親友の島耕二は、彼を救うため、悪天候の中、飛行場を一人飛び立つのだった…。
映画の前半、これからの日本の未来を担う航空機の技術が、さらりと紹介される。中島飛行機の模型。ちょうどこの年、この会社の戦闘機が陸軍に正式採用されたばかりであり、本作は、その宣伝も兼ねていたように思われる。前半の未来への夢溢れる雰囲気から一転、後半は、飛行機のサスペンス。ここでは英雄的な主人公の行動が讃えられるのだが、はっきりとは描かれていないものの、明らかに戦争の影が近づいているのを、画面から感じることができる。それもそのはず、1937年は、盧溝橋事件が起き、中国との全面戦争に突入した年であり、また内務省からの通達により、映画には強い国策が課せられたところだったのだ。
前半の遊覧飛行では、夢溢れる雰囲気を醸し出した柳下美恵さんのピアノは、飛行機不時着のシーンでは轟音をとどろかせ、後半はサスペンスフルになっていく。ピアノが、映画の音(効果音)となっていて、サイレント映画であることをしばし忘れてしまう。
『島耕二監督』
(監督・撮影:馬場良秀 10分/DVD)
庭に梅の花が咲く頃、晩年の島耕二監督の穏やかな日常が綴られる。たくさんの野良猫たちが、彼の周りを取り囲む。かつては、大勢のスタッフやキャストに囲まれていた監督が、今や猫の親分といった風情である。彼らにエサをやり、具合の悪そうなものがいれば、動物病院にも連れて行く。もちろん人間も訪れる。中でも仲良しなのは、監督の自宅の階下の下宿に住む女子学生。おじいちゃんと孫のような…いやいや若い人とおしゃべりに興じると、監督自身も若返ったかのように見える。わずか10分の記録映像、いつまでも続くかにも見える人生の一瞬が、幸せな時が、ここに永遠に刻まれている。
柳下美恵さん、馬場良秀さん(監督・撮影)トークショー
【馬場良秀監督・撮影プロフィール】
「昭和23年生まれ66歳。島耕二さんのご子息である俳優片山明彦さんの縁でTV、映画界に入る。島耕二監督の助手や、羽仁進監督のスペシャル番組の撮影を10本以上担当、国体の記録映像、1993年伊勢神宮式年遷宮の記録映像、NHKスペシャル「日本染織紀行」「生き物地球紀行」などの撮影を担当」
『翼の世界』について
柳下美恵さん(以下柳下) 「映画を観た印象はいかがでしたか」
馬場良秀さん(以下馬場) 「今でもちゃんと観られるくらいに、きちっと作られていると思いましたね。ただ、僕はカメラをやっているものですから、気になったのは、もしフィルムに傷が出たり、トラブルがあったりすると、原因究明のためにフィルムにナンバーを打つのですが、それが写っていたところですね。ナンバーから写るというのは、本来おかしいです」
(柳下) 「これは改訂版だから、フィルムがそれしか残っていなかったのですかね」
(馬場) 「なぜだかはわからないですが、とにかくああいうのは、絶対に使わないですよ。すごいなと思ったのは、飛行機をよくフォローしていることですね。昔のカメラの三脚はものすごく使いにくいのですよ。遠くから撮るのは難しくないのですが、飛行機が段々近づいてきて、真上に来て去っていく、その動きをフォローしていくのはとても難しいんです。今の技術でも難しい。もちろん当時の飛行機と今のものとは速度は違います。僕もアトランタに行って大空港というのを撮ったのですが、とてもフォローしきれない。どうしても追っかけになっちゃうんですよね」
(柳下) 「飛行機の中から富士山を見るというシーンがありましたが、あれ本物ですか。すごく大きく見えたのですけれども」
(馬場) 「ちゃんと飛行機の上から撮っていますね。あれは、5000mくらいから撮っているって感じですね。逆に僕が気になったのは、待ちカットが多いことです。待ちカットっていうのは、予めカメラを構えていて、そこに人物が入ってくるといったものですね。ちょっとバランスが悪かったりするのです」
(柳下) 「もしかしたら全体の尺があれくらいなので、全体からすればいいのかもしれないですけれども」
(馬場) 「本当だったらもうちょっとカメラを引けば、そんなに違和感なかったのかな。そういうのが2,3カットありましたね。ただ、印があるわけではないのに、役者さんがピタッとフレームの中に納まっている。これは役者さんが上手ですよ。映画の好きな人の中には、あんまりフレームにピタッと納まるのは、気持ち悪くて嫌だっていう人もいるのですけれどもね」(柳下) 「監督が指示するのではなくて役者さん自らが、計算しているのでしょうか」
(馬場) 「もちろんリハーサルの時に、監督さんが、ここで止まってセリフをしゃべって、みたいなことをやっていると、思いますけれども」
(柳下) 「先程、役者の島耕二さんを初めてご覧になるっておっしゃっていたのですけれども、島さん自身の演技はどうでしたか」
(馬場) 「余計な動きが無かったですね。これ見よがしにエッ!みたいな、びっくりした顔はしないし。映画はあんまりオーバーにやってはいけないし、ちっちゃいのも困る。またごそごそ動くと、観ている人がイライラする可能性がある。舞台は広い所で演じるので大きく動かなければならないですけれども、映画はカメラが寄っていきますから、少しの動きだけで、相手に話しかけたのだなってことがわかるんですね」
『島耕二監督』について
(柳下) 「晩年の島耕二監督のお近くにいたということですか」
(馬場) 「僕はその時は下高井戸にいたんです。で、島先生はつつじが丘にお住まいでした。その時は、私の方がちょっと景気が良くて車を持っていたものですから、買い物に行くのを手伝ってくれって言われて、行くことがありました。ただ、そんなに頻繁というわけではないです。お正月にお宅に行くとか、あと、この記録を撮るのに行った。そんな程度だったですね。」
(柳下) 「何かきっかけがあって、この映画をお撮りになろうとしたのですか」
(馬場) 「1978年、島先生が79歳の時に天理教に依頼されて、入信し布教した先人たちの再現ドラマを監督したのです。(『けっこう源さん』『清水与之助とその妻』)その時、息子さんの片山明彦さんから声を掛けられたことから、京都大映撮影所で、僕は助監督として作品を手伝いました。そうしたら撮影の後、先生がぽつりと、もう一本死ぬまでに映画を作るからと、言ったんですね。それじゃ、台本書くところから記録に撮らせて下さいよって僕が言ったら、いいよって言ったんで、それで撮り始めたんです。先生は最後まで映画を作るつもりでいたんですよ。心臓が非常に悪くて、それで倒れて入院されたんです。結局、撮りためた映像を15分くらいにまとめたんですけれども、片山さんから、それを先生の四十九日の時にビデオにして配ろうよっていう提案があったんです。それが今日上映した作品です」
(柳下) 「それで最終的には、片山さんが監修をされて、共同監督っていうことになったんですね。ナレーションはいかにも息子さんが入れたって感じですものね。それがとてもリアルでした。片山さんは子役として有名だったんですけれども、その後やっぱり監督になりたいということで、ドキュメンタリーの監督もやったりしているのですよね。ここでもその片鱗が出ている感じがしましたね」
(馬場) 「僕は、片山さんが講師をされていた劇団に入っていたのですが、片山さんがヨーロッパ旅行に行った時、16ミリカメラを買ってきまして、これで映画を撮ろうっていうことになったんです。その時、撮影する人がいなかったもので、そこで僕が手を挙げたのです。それ以降、僕は撮影の仕事をしていくことになったんですよ。本当は僕も役者志望だったのですけれどもね。島監督とは、元々片山さんとの縁から繋がったのです。」
(柳下) 「最初に出会ったとき、島さんはいくつくらいだったのですか」
(馬場) 「1975年だったから、74過ぎでしたかね」
(柳下) 「もう引退されていたのですか」
(馬場) 「もういいかなって。ああして猫の世話していたくらいですから」
(柳下) 「映画の中では、確かに悠々自適で楽しそうに過ごしている好々爺、といった印象を持ちました。島監督の思い出をちょっとお話し下さい」
(馬場) 「1978年に天理教の映画の仕事が終わって、先生がまだ映画を撮るよって言っていた頃、僕は結構忙しくて、世界中あちこちを回っていたのです。その時に片山さんから、お前そんなに海外に行っているのなら世界中の煙草買ってこいって、言われたんです。一番売れているやつを1カートン、お土産それでいいからって。僕は、ずっと片山さんが吸うと思って渡していたんですが、ある日、島先生の家に行ったところ、先生がこりゃまずいなって、僕が買ってきた煙草を吸っていたんです。何にも言えなかったですよね(笑)。先生は煙草ものすごく好きなんです。部屋の中に入るとバニラの匂いがするんですよ。これは何の匂いかなって思ったら、全部煙草だったんですね」
(柳下) 「映像の中にも、煙草を吸っているところが出てきていましたものね。あんまりしゃべらない方なんですかね」
(馬場) 「もうほとんどしゃべらないですね。お早うございますってこっちが挨拶すると、おいっ、みたいな感じでね」
(柳下) 「映画の中では、女生徒さんとは、よくしゃべっていましたよね」
(馬場) 「本当にあんなにしゃべるなんて。僕の前では、おっ、おいっくらいしか言わなかったので」
(柳下) 「もしかしたら人によって、しゃべるのか、あるいは、カメラを向けるとしゃべるのか」
(馬場) 「そうですね。撮っていいですかって聞いたら、うんって、どちらともつかない返事をされるから、とにかくカメラを廻していたら、猫をすっと連れてきて横から猫をフレーム・インさせたり、結構そういうことやってくれたんですよね」
(柳下) 「元役者さんだからかもしれないですね。あの女生徒さんは、場所がつつじが丘だから、ご近所の桐朋学園っていう音楽大学の方ですかね」
(馬場) 「2階に先生が住んで1階がアパートになっていたんですが、そこは全部桐朋学園の人が入っていましたね。そもそも女性しか入れなかったんですね」
(柳下) 「そういえば、島監督は何回も結婚されていましたよね」
(馬場) 「最初は女優の大谷良子さん。片山明彦さんのお母さんです。その後片山夏子さん。片山明彦さんはこの人に育てられたらしいですけれども、とてもやり手で、新橋にもお店を持っていましたね。その後が女優の轟夕起子さん。で、轟さんが亡くなられた後、ヤスさん。名字は分からないのですが、いつもそう呼んでいたので、ヤスさんだと思います。ヤスさんはお店を持っていたものですから、夜しか来ないんですね。四谷三丁目の辺りで、手作りの婦人服のお店をやっていました。多分、映画で使用するために、彼女に衣裳をお願いしたという縁かもしれないですね」
(柳下) 「映画の中で流れていたのは、片山さんが選曲されたジャズだそうですね。聞くところによると、島監督もジャズが好きで、サックスなんかを自分で吹いていたとかいうのですけれども、そのお父さんの影響で片山さんもジャズを聴いたんですかね」
(馬場) 「片山さんは、ジャズが好きでしたね。ジャズが流れる映画が好きで、よく僕なんかに、アメリカ映画を観ろと言いましたね。そりゃ他の国の映画もいいけれども、アメリカ映画をよく観ろと。島先生もアメリカ映画はいいって言っていましたね。それにジャズもとても好きで、お家の入口に入ると、そこが全部本棚になっているのですけれども、その下にはずらっとレコードが並んでいたんです。亡くなった後、片山さんが持っていったらしいということは聞きましたけれどもね」
(柳下) 「島監督は戦前に、自分でジャズをやって、俳優になって、監督にもなってしまうなんて、頭もいいしモダンな方だったのかなって思いますね」
(馬場) 「そうですね。先生が作った映画のタイトルを挙げてみますと『風の又三郎』(40)『次郎物語』(41)『銀座カンカン娘』(49)『宇宙人東京に現わる』(56)『有楽町で逢いましょう』(58)『猫は知っていた』(58)『いつか来た道』(59)とあるのですけれども、このタイトルを聞くだけで何となくホンワカっとして、楽しい映画だなって感じがするじゃないですか」
(柳下) 「確か片山さんも、2本くらい島監督の作品に出ていましたよね」
(馬場) 「『美しき首途』(39)『風の又三郎』『出征前十二時間』(43)が片山明彦さん出演で、『次郎物語』は杉幸彦さんでした。『次郎物語』には、杉狂児さんっていう島先生と同じ年代の役者さんが出ていて、通じるところがあったのでしょうか、他にも『ひばりの子守唄』(51)『暢気眼鏡(のんきめがね)』(40)なんていうのも一緒にやっています。喜劇ですよね。その頃はテレビも何にもないので、きっととても楽しかったと思いますよ。『いつか来た道』っていうのは、第1回モスクワ映画祭の審査委員賞を受けていますね。1970年には、映画監督の仕事を終えています。約95本監督していますけれどもね」
(柳下) 「でも天理教の再現ドラマの仕事なんかが入ると、急に元気になって。やっぱり監督というものに生きがいを感じてらしたのですかね」
(馬場) 「とても張り切っていたんですよ。最後にもう1本作るんだって言って。本屋に行くと、何十冊もいっぺんに買ったりするんですよ」
(柳下) 「資料としてですね。そうすると、自分のシナリオで何かを作りたいと思っていたのですね。ストーリーはまだまとまっていなかったのですか」
(馬場) 「よくはわからないですけれども、時代劇をやりたかったんじゃないかなって思います」
(柳下) 「今日は貴重なものを見せていただいて、またお話をお聞かせいただいて、ありがとうございました」