【FILMeX】ディーブ(コンペティション)

『アラビアのロレンス』の裏側を覗いてみたら、違った世界が見えてきた。

ディーブmain 第一次世界大戦中のアラビアと、時代背景がまったく同じということもあって、どうしてもこの作品は、『アラビアのロレンス』と比較したくなってしまう。映画の中で、T・E・ロレンスは「砂漠は清潔なところが好きだ」と、その印象を語った。デヴィッド・リーン監督が撮った砂漠は、ゴミもなく、人が歩いた跡もなく、ただ、風が織りなす風紋が、美しい模様を描いている。ピュアで神秘的で、時に残酷さを見せつける砂漠。後半その砂漠が血に汚れる時、ロレンス同様、砂漠もまたその純粋さを失ったとでも、言いたくなるような演出がなされている。『ディーブ』で描かれる砂漠は、遠目には『アラビアのロレンス』の、あの舞台を再び訪れたかのような錯覚を起こすが、近くによれば死体には蝿が群がり、死の匂いが辺りを支配している場所として描かれている。アラビアの砂漠独特の、岩山を通り抜ける細い道は、文字通り死の谷であり、ロレンスのように、歌声をこだまさせ楽しむ余裕などはない。

遊牧民ベドウィンのテントに、英国人将校が道案内を頼みにやってくる。「客人には最大限のもてなしをすること」彼らは、映画の冒頭に示された教えのひとつを忠実に守り、重な山羊をつぶし、最大限のご馳走を振る舞う。それにも関らず、英国人将校は、口に合わなかったのか、それをこっそりと捨ててしまう。両者の間の温度差が、そのまま彼らの関係性を物語っている。『アラビアのロレンス』においては、野蛮で“強欲”な族長アウダのテントで、歓迎を示す豪勢な宴会が開かれるが、その大盤振る舞いの裏の台所事情はいかほどであったのか、映画を観てそんな想像をまずすることはない。いわば両作品には、ラクダの背中に乗って見る砂漠ではなく、地面の砂の熱さを直に感じながら見る砂漠くらいの違いがある。要するに『アラビアのロレンス』の裏にある、あまり見たくなかったものを見せられているかのような居心地の悪さが、この作品にはあるのだ。

また、この作品では、主人公である、狼を意味するディーブという名前を持つ少年に余計な知識がないことで、逆に物事の本質を見せることに成功している。不機嫌で、人を見下したかのように振る舞う英国人、盗品を僅かなお金で買い叩く、不遜な態度のトルコ人も、少年にとっては、いずれも初めて目にする外国人たちだ。なぜ、大人たちは彼らの前で卑屈な態度にならなければならないのか。なぜ部族の名誉という意味だけで、英国人のために身を危険に晒さなければならないのか。同じ民族でありながら、英国人、トルコ人の下でなぜ自分たちが殺し合いをしなくてはならないのか。この問いかけは、今にも通じるところがある。

もちろん当時、トルコがアラブの支配層であり、英国が戦争をして、新たな支配層になろうとしていることなど、少年が知る由もない。しかし、「鉄道が通ったばっかりに、自分たちの生活は変わってしまった」すなわち、巡礼の案内という仕事がなくなってしまったがために、盗みで生計を立てる他なくなってしまったということ、この理屈なら少年にもわかる。史実で言えば、現在に通じるアラビア半島の不安定さの発端は、第一次世界大戦時の、サイクス=ピコ秘密協定とバルフォア宣言にある。それを本作では、鉄道に象徴させているのである。自分たちの生活習慣を守り、平和に暮らしていたところに突如入って来た鉄道、すなわち異文化によって、同胞が殺し合いをする自体になってしまったのだと。現在シリア、イラクは混迷を深めている。そんな今だからこそ、その原点をもう一度見直す必要がある。その際には、世界に広がった『アラビアのロレンス』に代表される、間違った歴史観を改める必要がある。そんな差し迫った思いが、本作にはあるように感じられる。

※なお『アラビアのロレンス』は、歴史劇というよりは、ロレンスその人に焦点を当てた作品なので、映画的価値に変わりはありません。


▼作品情報▼
原題:Theeb
監督:ナジ・アブヌワール
撮影:ヴォルフガング・ターラー
出演:ジャーセル・イード、ハサン・ムタラグ、フセイン・サラメ
(ヨルダン、U.A.E.、カタール、UK / 2014年 / 97分)
© TOKYO FILMeX 2014  


▼第15回東京フィルメックス▼
期間:2014年11月22日(土)〜11月30日(日)
場所:有楽町朝日ホール・TOHOシネマズ日劇
公式サイト:http://filmex.net/2014/

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