マルタのことづけ
彼女は橋の上の石の欄干をひとり歩く。フラフラとしながらも、一歩一歩慎重に。主人公クラウディアは、地元のスーパーで実演販売の仕事をしながらひとり小さなアパートで暮らしている。26歳、親しい友達もなく、恋人も無く、親兄弟さえもいない、天涯孤独の身。その彼女の心境がこのシーンに凝縮されている。生きているという実感もなく、時に投げやりで、かといって川には落ちたくない。ファーストシーン、朝彼女の寝床で鳴り響いていたのは、近くの工場の規則正しく響く機械音、それは本当に存在しているものだったのか、それとも彼女自身の鼓動がそのように聴こえていたのか。その孤独。今日もまだ生きていると実感しながら、彼女はやっと身を起こす。
もうひとりの主人公マルタは、46歳、4人の子供のシングルマザー。不治の病に侵され死期が迫っている。彼女の姿に母親の本質を見る。ベッドに横たわりながらも、入り替わり立ち替わりに枕元に寄ってくる子供たち。恋の悩みや学校での不満をそれぞれ言っては、母親にそっと引き寄せられ慰められる。家の中の彼女はまるで大きな一本の木、寄ってくる子供たちは、木々に止まる小鳥たち。もう葉っぱが落ち充分な恵みを与えられなくなっても、小鳥たちは木を労わりつつ休める枝を求めてやってくる。永遠に今が続くことを願いながら。
いや、永遠にこの時が続かないことは、子供たちもよく知っている。家事はもう長いことそうしてきたのか、役割分担がちゃんと出来上がっている。入退院を繰り返す母だったが、彼女も懸命に子供たちのために料理を作り、しばしの団欒が訪れることもある。しかし、それはいつも長くは続かない。母も子もそうなることは分かっている。けれども今をできる限り普通に過ごそうと、お互いに気づかないふりをしている。人が死に向かう時、もはやだめだという瞬間に至るまで、その時々にできることをしよう、苦しい中でも幸せを見つけようとするのが人情である。身近な人を亡くした経験がある人にとって、この家族の気持ちは痛いほど伝わってくることだろう。
辛い時には、誰でも寄りかかれる人が必要だ。しかし、家族の間では全員が当事者であり、同じ気持ちを抱いているがゆえに、それが出来ない。そこに偶然飛びこんできたのが、クラウディアだった。不思議な疑似家族関係が生まれる。ちょっとしたことでバランスを崩しかねない状態だった家族が、彼女の出現で調和していく。それまで母としての面しか見せていなかったマルタが、ひとりの女性としての面を見せる。クラウディアといると、女性の先輩、後輩のような関係が築けるからだ。子供たちも今まで言えなかった不安をクラウディアにぶつける。「ママが死ぬのを見たくない」と。逆に孤独だったクラウディアは、初めて家族の味を知る。
もし、これとは違ったシチュエーション、すなわちマルタが元気な状態でクラウディアがこの家族に出会ったとしたら、両者にこのような化学反応は起きなかったであろう。これはお互いが求めていたものが合致した結果である。死は終わりではない。死は新たな再生をもたらすこともある。クラウディアという新たな家族、マルタが子供たちに残したことづけ。例えマルタが死しても、彼女の家族への愛は、決して失われることがない。そうした意味でこの作品には希望がある。近所との関係が希薄になり地域社会も崩れている。また、行政や民間の施設を頼ろうとしても、親身になって悩みに答えてくれることはなかなか難しい。そんな中、こんな家族の形もあるということが、大きな希望をもたらしてくれる。
▼作品情報▼
原題:Los insolitos peces gato
監督・脚本:クラウディア・サント=リュス
製作: ヘミニアノ・ピネダ
キャスト: ヒメナ・アラヤクラウディア
リサ・オーウェンマルタ
ソニア・フランコアレハンドラ
(2013年/メキシコ/91分)
配給:ビターズ・エンド
公式サイトhttp://www.bitters.co.jp/kotoduke/
※10月18日(土)シネスイッチ銀座他全国順次ロードショー!