聖者たちの食卓
深い霧が立ち込めるインド、パンジャブ地方の朝。前を歩く人さえ微かに影しか見えないような霧というのに、荷車や自転車それどころかバイクまでもがその細い道を走り抜けて行く。よほど慣れているのだろう、よくぶつからないものだと感心する。「真の法王ナーナクは沸きかえる烟霧のうちに生まれ給えり」(「インドの黄金寺院」那谷敏郎 平凡社カラー新書)これは、シク教を起こしたナーナクを讃えた彼の弟子の言葉であるが、当時のこの地方の社会状態を、ここに特有の気候にかけて表したものだったのではと、ふと想像する。
本作は、黄金寺院において無料で提供される1日10万食ともいわれる食事の舞台裏を、セリフやナレーションもなく、ただひたすら追ったドキュメンタリーである。野菜を収穫し、トラックで運搬。下ごしらえをし、調理し、それが給仕され、さらには、食器や調理器具を洗浄し、床が清掃される後片付けまでがキャメラに収められている。食事という、生きていく上での基本的な事柄が、スペクタクルでありドラマになっている。
食事を作るのに、近代的な設備はまったく使われていない。そこにあるのは、昔ながらの大きな釜戸、鉄鍋、フライパンだけだ。一体どうやったら10万食もの食事を提供することが可能かというと、沢山のボランティアがいるからである。玉ねぎを剥く人たちはひたすらその作業をつづける。それを調理場に運ぶ人がいる。チャパティをこねる人、伸ばす人、焼く人がいる。食べ終わった食器は、回収した人によって空中に放り投げられ、それらを大きなバケツで巧みに受ける人がいる。あまりにもアバウトなので、よく落としたり、身体にぶつかったりしないものだと、感心してしまう。そんな調子なので、分業化されたそれぞれのセクションは一見雑然として見えるのだが、全体としては機能的に出来ていて、まるで食堂はひとつの生命体のようでさえある。なぜこんなことが可能なのかという答えは、寺院の中に書かれている言葉にある。「無償で人の役にたつことをした人は、救われる」と。人々の手作業による行程にも宗教的な意味があり、ボランティアはそのために集まってくるのだ。
シク教の寺院では、すでに16世紀に、カーストを否定しすべての人が平等に食事できる無料食堂の原型ができていたという。このことは、シク教が元々ヒンズー教への反発から生まれたことと関係があるようだ。その平等の精神は徹底していて、キリスト教徒も仏教徒もヒンズー教徒も、ただ頭を覆い隠し、裸足で寺院内に入れば、食事をすることができる。順番に床の上に坐りさえすれば、金持ちも貧乏人も肌の色も関係ない。これはすごいことである。
そもそも食事とは、誰かと分かち合うものだったはずだ。出来あいのものを買い、何も考えずに適当に食事をしていると、ついそういうことを忘れてしまう。英語のcompanionの語源は、ラテン語のクム(Cum)=(一緒に)とパニス(Panis)=(パン)という言葉が合わさった言葉である。すなわちパンを共に食べる人は“仲間”であるということ。何より言葉が食事の意味を指し示している。仲間で分け合い、コミュニーケーションが生まれ、ここからマナーや食文化は生まれてきた。そこには平和がある。そう考えると、寺院の食事風景は、食事の根源的意味を思い出させてくれるだけでなく、平和の精神をも教えてくれているようだ。食事の準備に追われる喧騒の中に感じられる、意外な静けさ穏やかさは、寺院の中がその平和の精神で満たされているからなのだろう。
▼作品情報▼
『聖者たちの食卓』
原題:Himself He Cooks
監督:ヴァレリー・ベルトー 、フィリップ・ウィチュス
音楽:ファブリス・コレ
配給:アップリンク
2011年/ベルギー/65分
(C)Polymorfilms
9月27日(土)、渋谷アップリンク、新宿K`sシネマほか全国順次公開
公式HPhttp://www.uplink.co.jp/seijya/