ケープタウン

“赦し”を実践することの難しさ

ケープタウンmains 南アフリカと聞けば真っ先に何を思い浮かべるだろう?4年前のサッカーW杯も印象深い出来事だったが、やはりアパルトヘイトと昨年亡くなったネルソン・マンデラではないだろうか。マンデラが20世紀を代表する偉人であることに異論はない。彼の何が偉大なのかといえば、アパルトヘイトと不屈の精神で闘ったこともさることながら、彼が大統領になった後に自分たち黒人を迫害してきた白人との融和政策を進めたことだ。憎悪よりも赦しを。それを実践したからこそ、多くの人の尊敬を集めたのだろう。それが良く分かる映画が『インビクタス/負けざる者たち』(09、クリント・イーストウッド監督)だった。

『インビクタス』で描かれたように、マンデラが白人との融和に尽力した様は感動的だった。ラグビーW杯を通して国が一つになったことに、未来に希望を感じられたのも確かだ。だが、実際にはどうなのだろうか?国を挙げての一大イベントの熱狂が去った後、人種間の憎悪や差別は本当になくなったのだろうか? 本作『ケープタウン』にはそんな疑問が通底している。

本作の舞台は2013年、南アのケープタウン。刑事アリ(フォレスト・ウィテカー)とその部下ブライアン(オーランド・ブルーム)が主人公だ。アリの父親はアパルトヘイトの犠牲者だが、彼はマンデラが説くように赦しを実践している。彼の上司である警察署長は人種差別主義者として黒人を虐待していた過去を持つ。だが、マンデラの融和政策の目玉である「真実和解委員会」(※)での罪の告白により、現在の地位を手にした。そしてアリを警部に昇進させ、アリはそのことを「感謝している」。そんな彼を同僚たちは「寛容だ、立派だ」と誉めそやす。一見、マンデラの赦しの政策が実ったかのようなシーンであり、温厚なアリは周囲からの信頼も厚い。だが、時折見せる彼の苦悶の表情は何を意味するのか?そして女性にモテないわけではないのに、彼女たちへの不可解な態度は・・・?ここが本作のキモである。

ケープタウンsub01 アリとブライアンは白人少女の殺害事件、それと前後して起きた黒人の子供連続失踪事件を追ううちに、終わったはずのアパルトヘイトの根深い闇に否応なく引きずり込まれていく。事件の全容を知り、黒幕と対峙する直前のアリの悲痛な叫びが衝撃的だ。長年心の奥底に、“赦し”という蓋で封印してきた感情が堰を切ったように溢れ出た瞬間で、彼の苦悩も女性への対応も全て合点がゆく。そんなアリの制御不能に陥るほどの負の感情に、アパルトヘイトの罪業が心に重く残る。

確かにマンデラは偉大な人物だ。でも誰もが彼のように崇高な境地に達せられるわけではない。悲しいかな人間たるもの、凡人のほうが圧倒的に多いのだ。凡人だらけの世界のなか、「赦す」と口で言うのは簡単だが、建前ではなく心の底から実践することは夢物語に過ぎないのではないか・・・。アリの決着のつけ方に絶望的な思いにとらわれてしまう。

ただ唯一の救いがあるとすれば、アリが最も信頼した人間が白人のブライアンということだ。彼は別れた妻に未練タラタラなくせに女と酒にだらしなく、署長から「クソ」扱いされているが、アリは彼の刑事としての能力を高く評価していた。二人の信頼関係の醸成過程の描写がほぼ皆無なのが残念だが、ここに微かな希望があるように思える。果たしてアリとブライアンの関係に人種の壁はあっただろうか。「白人だから」「黒人だから」という前に、ともに「人間」であることを受け入れることが肝要なのだろう。どちらかが危険な時には必ず駆けつける二人の絆に、「真の」和解のありようを示しているようでならない。これは単なる刑事モノではなく、そして南アならではの問題であると同時に南アだけの問題ではなく、ひいては人種や民族間の争いが絶えない現代世界への課題をつきつけた映画である。

(※)アパルトヘイト体制下で行われた政治的抑圧や人権侵害の真相を明らかにし、被害者の復権を目指すと共に民族和解を達成するために設置された委員会

▼作品情報▼
出演:オーランド・ブルーム、フォレスト・ウィテカー、コンラッド・ケンプ
監督:ジェローム・サル(『ラルゴ・ウィンチ裏切りと陰謀』)
脚本:ジュリアン・ラプノー(『あるいは裏切りという名の犬』)、ジェローム・サル
原作:キャリル・フェリー著「ZULU」
原題:ZULU
配給:クロックワークス
2013年/フランス/107分
公式サイト:http://capetown-movie.com/
(C)2013 ESKWAD-PATHÉ PRODUCTION-LOBSTER TREE-M6FILMS
8月30日(土)新宿バルト9他にてロードショー

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