『セラフィーヌの庭』 神のお告げを聞く者か、あるいは…

日本ではまだその名を聞くことはあまりないが、セラフィーヌ・ルイ(1864-1942)という女性は、パリ郊外の街サンリスでお屋敷の下働きをしながら絵を描き続けた。熾天使を意味するヘブライ語「セラフィム」に由来する名前だからか、自分は天使の声を聞く者と信じ、「絵を描くように」という天啓を受けるがまま、絵を描いた。ぎりぎり生計を立てられるだけのわずかな日銭を得る生活。 使う絵の具は彼女のオリジナルだ。画商ウーデが「他にない力強い赤だ」と賞賛したその材料は見てびっくり。こっそりくすねた教会の聖油ですら、貴重な絵の具材料だ。ロウソクの灯りの中で絵の具を作り、酸欠でぶっ倒れるまで聖歌を歌いながら絵を描くすがたは、神に捧げる神聖な儀式に臨んでいるかのようだ。

セラフィーヌの絵のモチーフはもっぱら大地の草木や花々であったが、それらに向ける真っ直ぐな眼差しは、フェデリコ・フェリーニの『道』に出てくる女旅芸人ジェルソミーナのようだ。彼女もまた、何てことない景色や焚き火の炎を大きな瞳でじっと見ていたのだった。ジェルソミーナいうことばは、イタリア語でジャスミンの花をさし、純粋さの象徴であることからも、セラフィーヌと相通ずるものを感じる。主演のヨランド・モローは、セラフィーヌの肖像画を見て「これはあたしだわ」と言ったというが、演じるというよりもはや、セラフィーヌの化身としてスクリーンに存在している。

ヴィルヘルム・ウーデはドイツの画商で、「素朴派」として最近日本でもよく紹介されるアンリ・ルソーを見出したことでも知られる。彼がサンリスの街に滞在したことでセラフィーヌと出会うが、やがて彼女と天界を結ぶ、ささやかな世界に異変があらわれる。貧しくても社会的な地位や世間体という一切のしがらみから自由だった彼女だが、絵が知られていくことで得られる世間の賞賛やお金。汚れた俗世の象徴ともいえるものが彼女の生活に流れ込み、やがて彼女は精神のバランスを崩していく。ある冬の朝、裸足にウェディングドレスを纏ったセラフィーヌが聖書の句を呟きながら街を徘徊するシーンがある。本来祝福をもって迎えられるべきその姿に幸福の面影はない。巡礼者のようにも見えるがともすればただの、気がふれたおばさんだ。彼女は精神病院に収容され、以後絵を描くことなく病院でその生涯を終える。天界にいる天使たちに見せるために描かれた絵は、病床の彼女いわく、「夜の闇に消えていった」のだった。天に召されたとき、彼女は天に持っていく絵を持っていなかったという意味では悲しい結末であった。夢だった展覧会は彼女の死後、ウーデによって開かれた。また今日私たちがセラフィーヌの絵を見られるのも彼の功績によるものだ。映画では画家と支援者という枠を超えた、家族のようなつながりをもって描かれていた二人だったが、ウーデと出会わなければ、彼女は童心にも似た幸福な精神世界で、絵を描き続けられたのかもしれない。

本作品でセザール賞をはじめ国外でも多くの賞を受賞したヨランド・モローにとって、代表作となるのは間違いない。中世からそのまま残っていそうなフランスの田舎町の佇まいや、セラフィーヌが自分の庭のように戯れた草原や小川に差し込む自然光はただただ、美しい。

文 大坪加奈
おススメ度★★★★☆
【原題】『Seraphine』

2008年 フランス・ベルギー・ドイツ映画

【監督】マルタン・プロヴォスト

【キャスト】ヨランダ・モロー ウルリッヒ・トゥクール

【公式サイト】 http://www.alcine-terran.com/seraphine/

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