凶悪
(映画のラストに触れています。これからご覧になる方はご注意ください)
「まだ警察も知らない事件がある」。刑務所の服役囚から雑誌編集部に届いた一通の手紙。上司に命じられて刑務所に出向いた記者の藤井(山田孝之)は、極悪な事件を起こし死刑を求刑されている元暴力団組長の須藤(ピエール瀧)から3つの余罪の告白を聞く。金のために老人を殺害し、しかも、須藤が「先生」と呼ぶ主犯の男(リリー・フランキー)はまだ捕まらずに娑婆でのうのうと暮らしていると言うのだ。事件を記事にして「先生」を追いつめてほしいと須藤に頼まれた藤井は、気乗りしないながらも事件を調べ始める。
映画の冒頭に、これは実話に基づいたフィクションである旨が映し出され、おや、と思う。本作の原作は、「新潮45」の記者の実際の取材に基づくノンフィクション『凶悪—ある死刑囚の告白—』だ。こういう実録ものを読むとき、我々は「これが現実に起こった」ということに驚嘆する。と同時に、「でも自分とは関係ない、他人事の世界」と線を引いてはいないだろうか。テレビのワイドショーを見て「こんな事件もあるんだね、怖いね」と思うような、興味本位の感覚だ。しかしこの映画は他人事では済まされないような、原作にはない仕掛けをしている。それが「フィクション」たる部分。事件を追う記者・藤井の内面の劇的な変化と、藤井の家族を描いていることがそれに当たるだろう。
藤井は、事件の真相に近づくにつれ、どんどんのめり込んでいく。上司の指示にも反し独力で取材を進め、周りが見えなくなり、やがて行き過ぎる。彼を突き動かしたのは一体何なのか? 闇に隠れた悪人を白日の下に晒したい、被害者の無念を晴らしたいと言うジャーナリストとしての正義感か。それとも「楽しかったんでしょ? こんな狂った事件追っかけて」と言う妻(池脇千鶴)の言葉の通りなのか。もしくは、凶悪な殺人犯たちの放つ毒に当てられたのか。彼は、「先生」を刑務所に入れるだけでは満足できない。そもそも須藤や「先生」は死刑に処すべきで、刑務所で穏やかに生きる権利すらないと思うようになる。刑務所の面会室で「俺を殺したいと思っているのは、被害者でも、おそらく須藤でもない」と言い、藤井を指差す「先生」。そう、藤井は彼に明確な殺意を抱いてしまっているのだ。
一方、認知症の母の介護を妻一人に任せきりで、顧みなかった藤井。再三相談しても当てにならず事件を追い続ける夫に妻の我慢は限界を超え、義母に手を挙げてしまうようになる。「お母さんが死ぬのを心のどこかで待っている」。自分はそんな人間になりたくないと思っていたのに、と妻は夫を詰る。
また、自分の夫(父)が作った莫大な借金に悩むある家族。劇中で描かれる第三の事件、保険金殺人だ。重度の糖尿病と肝臓を患っていたじいちゃんは、酒を飲み続けていけばやがて死ぬ。必死で働いても返せない借金の山を前に、家族は追いつめられ、いつしか願う、死ねばいいのにと。けれどなかなか死なない……。そんな隙間に「先生」は入り込んでいく。保険金掛けて殺しちゃいなよ。じいちゃんはこっちで引き受けるから、と。
凶悪な人間による凶悪な犯罪の現場は目を背けたくなるほど残酷だが、金のために殺す、ビジネスという「軽さ」がそこにはある。だが、もっと恐ろしいのは、普通の人間が抱いてしまう殺意ではないだろうか。それまで犯罪に手を染めることなくまっとうに生きて来た人間にも芽生えてしまう「死ねばいい」「死んでほしい」という感情。藤井や藤井の妻ばかりか、家族の殺人依頼をした人々の感情すら理解してしまえる自分が怖くなる。こんな感情が、自分にも起こりうるのではないか? もちろん、実際に手を下すこととの間には大きな隔たりがある。しかし、死んでほしいと思っている時点で、いつしかその隔たりを飛び越えてしまうこともあるのではないか。異常とも言える執念に取りつかれた藤井は、その過程にいるように思える。映画の終盤、母を老人ホームに入れることに罪悪感を抱きずっとためらっていた藤井が、妻の懇願もあってようやくその決心をする。しかしその裏には、その罪悪感を捨ててまでも、本腰を入れて「先生」を死刑まで追い込もうとする決意の表れがあるようにも見え、ゾッとしてしまうのだ。
現実に起こった事件を題材に人間の業と心の闇を描き、観る者の道徳観や倫理観をも揺るがしギリギリと問うてくる本作。原作にはない映画ならではの仕掛けを、ぜひ劇場で確かめてほしい。
▼作品情報▼
監督:白石和彌
脚本:高橋泉、白石和彌
原作:新潮45編集部『凶悪―ある死刑囚の告白―』(新潮文庫刊)
出演:山田孝之、ピエール瀧、リリー・フランキー、池脇千鶴
2013年/日/128分
(C)2013「凶悪」製作委員会
公式サイト: http://www.kyouaku.com/