25年目の弦楽四重奏
映画の結末に触れていますのでご注意ください。
結成25周年目を迎えた弦楽四重奏団。記念公演を控えたある日、チェリストが病気を理由に引退すると言い出したことから、完璧と思われたカルテットの均衡が崩れていく。第1バイオリンをやりたいと主張し始めた第2バイオリン、なぜこんな時にと彼を止めるヴィオラ奏者の妻。やがてこの不協和音は、音楽のみならず、彼らの生活や家族にも及んでいく……。公演の演目は、ベートーヴェンの弦楽四重奏第14番。作曲家は、第7楽章すべてを「attacca(アタッカ)」で、つまり楽章間で休止を取らないことを求めている。チューニングをしないまま、調弦が狂っていく中で演奏し続けなければならない難曲を、カルテットは無事に演奏を終えることができるのだろうか。
芸術を生業にする者にとって、自分が何者かであると言う自負やプライドは必要なものなのだろう。劇中で登場するレンブラントの自画像は、画家の並々ならぬ自信の表れとして捉えられる(事実、彼は数多くの自画像を残している)。しかし、その自負はともすれば個人のエゴと紙一重だ。第2バイオリンのロバート(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、完璧主義で自分の考えを曲げようとしない第1バイオリンのダニエル(マーク・イヴァニール)に向かい「一体どこまで我慢すればいいのか」と叫ぶ。プロであるからこそ譲れない一線。個と全体。均衡を保っていたかに見えたカルテットは、各人の自負と、数々の妥協や譲歩、犠牲があって成り立っていた。音楽を巡り喧々諤々と遣り合う彼らを見て「ソロでやればいいのに」と外部の人間は言うが、それでもダニエルは答える。大事なのは仲間だ、と。
音楽に限ったことではない。ある目的のために結成された集団や組織。最初は同じ方向を見ていた人間たちも、時の経過とともにズレが生じ、関係が破綻してしまうことがある。組織も生き物だ。何故こうなってしまったのかと言う理由もわからず、もはや誰にも止められない。The Beatlesの“Let It Be”のように、なすがままにしかならないという状況もあるだろう。演奏会当日、4人はステージに立つ。彼らの心には何が去来しているのか。怒り、疑念、寂しさ、葛藤、悲哀、諦観。それでも、お互いの音を聞きながら、音程の狂いの中で全体として突き進む音楽。ベートーヴェンの弦楽四重奏は、まさに彼らの今であり、人生のある局面を指している。
自分は「attacca」でこの曲を演奏することができない、だから引退すると言い残しステージを去るチェリスト(クリストファー・ウォーケン)。作曲者の求めに応えられなくなった今、もう退くしかないという奏者としての引き際である。それでも、彼は信じていたに違いない。カルテットも音楽も生き物だ。殺してしまうのは簡単だが、それでも生に向かってあがき、変化し続けることはできる。例え、自分がいなくても。
▼作品情報▼
監督・脚本:ヤーロン・ジルバーマン
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン、キャサリン・キーナー、クリストファー・ウォーケン、マーク・イヴァニール
2012年/米/106分
(c) A Late Quartet LLC 2012
公式サイト:http://25years-gengaku.jp/