さよなら渓谷
映画の結末に触れていますのでご注意ください。
緑豊かな渓谷に抱かれた町で起きた幼児殺害事件。若い母親がわが子を殺害したとして逮捕され、事件は収束したかに見えた。ところが、隣家に住む男、尾崎(大西信満)と母親が不倫関係にあったとの情報により、男は事情聴取を受ける。通報したのは男の妻、かなこ(真木よう子)。新たな容疑者として浮上した尾崎の過去を調べ始めた記者の渡辺(大森南朋)は、やがて尾崎夫妻が15年前に起きた事件の加害者と被害者であることを知る。
芥川賞作家・吉田修一の同名小説を大森立嗣監督がメガフォンを取った本作。吉田修一原作の映画化は『パレード』(10)『横道世之介』(13)等があるが、本作は2010年公開の『悪人』(李相日監督)とイメージが重なる。世間から隔離された山奥で起きた殺人事件。容疑者に迫る警察と報道記者。罪を犯した男と共に行動する女。そして両作とも、女がなぜ犯罪者と一緒にいるのかが焦点となる。
15年前、名門大学野球部で起こった集団レイプ事件。加害者の男と被害者の女はまるで逃げてきたかのようにひっそりと「結婚生活」を送る。特異な環境下で時間を共にした加害者と被害者の間に、特別な感情が生まれることがあるとは聞くものの、まさか、ありえない、と言う気持ちが渦巻く。なぜ彼女はそんなことができるのか。そしてなぜ今、夫を罪に陥れようとするのか。黙して語らない夫妻に迫る記者が、我々観る者の気持ちを代弁する。
本作に登場する加害者の男は、犯した罪の重さに苦しみつつも、一般企業に勤め「普通に」生きることがどこかで許されている。しかし、被害に遭った女は、たったひとつの「汚点」がついて回り、仕事も家庭も破綻してしまう。自分は許されていない。自分を責め犯人を憎み続ける呪縛。この落差はいったい何なんだろう。セカンドレイプという言葉があるように、こと性犯罪に関しては、被害に遭った方の「落ち度」が他の犯罪以上に問われる風潮がある。もしかすると我々は、犯罪の加害者側の心理を理解はできるが、被害者側の気持ちに共感することが非常に難しいのではないだろうか? 男だから分からない、女だから分かるという単純なことではない。そもそも人間は罪を犯す自分を想像はできても、自分が被害者になるなんて想像だにしないのだ。本作においても、かなこの心の動きを推し量るのは、最後までとても困難だ。『さよなら渓谷』はこのような人間の心を正面から捉えることに挑んだ作品なのである。
「私たちは、幸せになるために一緒にいるんじゃない」と吐露するかなこ。『悪人』が殺人犯と彼を愛した女の逃避行なら、本作は、幸せになってはいけないと覚悟を決めた加害者と被害者の逃避行である。それが憎しみなのか、償いなのか、愛なのか、彼らにとってその定義付けは意味がない。ただ、結果的にそれしか選択肢が残らなかったのだ。「私が死んだらあんたは楽になる。だから、死ねない」。幸福を追求する権利を放棄し、罪と罰を一生背負っていこうとする彼らには、楽になる道は残っていない。
「幸せになりそうだったから」、尾崎がなくてはならない存在になりそうだったから、彼を遠ざけようとしたかなこ。それでも彼女と生きていこうとする男のまなざしに、答えのない人生の深淵を見た気がした。
▼作品情報▼
原作:吉田修一「さよなら渓谷」
監督:大森立嗣
出演:真木よう子、大西信満、大森南朋、鈴木杏
2013年/日/117分
(C) 2013「さよなら渓谷」製作委員会
公式サイト:http://sayonarakeikoku.com/